旅の間、司馬遼太郎の『空海の風景』を読んで、「やっぱり空海の仏教は、釈迦の仏教とは根本的に違う」と思った。
空海は遣唐使時代に恵果から密教を受け継いだ。
以来、密教こそが空海にとっての仏教であった。
が、呪文や印契や一子相伝を重視する密教は、まじないめいたことを一切廃し、すべての教えが陽のもとに明らかにされている顕教たるお釈迦様の教えとは異なる。
密教の最上位は大日如来であるが、言ってみればこれは絶対神信仰であり、唯一絶対神を否定したお釈迦様の教えとはそぐわない。
違いを上げればキリがないだろうけれど、ソルティがもっとも感じる両者の違いは、「生(性愛)」に対するスタンスの差である。
以来、密教こそが空海にとっての仏教であった。
が、呪文や印契や一子相伝を重視する密教は、まじないめいたことを一切廃し、すべての教えが陽のもとに明らかにされている顕教たるお釈迦様の教えとは異なる。
密教の最上位は大日如来であるが、言ってみればこれは絶対神信仰であり、唯一絶対神を否定したお釈迦様の教えとはそぐわない。
違いを上げればキリがないだろうけれど、ソルティがもっとも感じる両者の違いは、「生(性愛)」に対するスタンスの差である。
お釈迦様は「生(性愛)」に対して否定的――とは言わないまでも少なくとも肯定的ではない。生存を奨励し、この世界を賛美し、性愛を享受するのを当たり前とする――古来日本神道に象徴されるような世俗的スタンスとは180度異なる立場を表明している。
わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを経めぐって来た、
―――家屋の作者をさがしもとめて。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
(中村元訳、岩波文庫『真理のことば』154句)
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
(同上、212句)
一方、空海はどうか。
空海は死よりも生を好む体質の男であった。かれの不満は、釈尊の肉声により近いといわれる諸経典に対するほとんど否定的なばかりのものであったにちがいない。
(中央公論社文庫、司馬遼太郎『空海の風景』上巻p.166)
また、札所27番神峯寺の大師堂の周囲の壁面に掲示されていた文言がこれだ。
神峯寺大師堂
ベクトルは正反対である。
これをもって「密教は仏教ではない」と断言するのは簡単である。
が、空海のしたたかなところは、釈迦の教えを否定せず、それを包含する形でおのれが信奉する純粋密教を構築したところである。
司馬曰く、
「純粋密教は釈迦教の一大発展形態ではないか」(『空海の風景』上巻p.142)
これをもって「密教は仏教ではない」と断言するのは簡単である。
が、空海のしたたかなところは、釈迦の教えを否定せず、それを包含する形でおのれが信奉する純粋密教を構築したところである。
司馬曰く、
「純粋密教は釈迦教の一大発展形態ではないか」(『空海の風景』上巻p.142)
空海はその著書『十住心論』や『秘蔵宝論』において、釈迦仏教にもっとも近いエッセンスをもつ小乗仏教を始めとし、南都六宗の華厳宗やライバル最澄をトップに置く天台宗を含め、その時代に出揃っているあらゆる仏教宗派のランキング付け(教相判釈)を行っている。
もちろん、トップに輝くのは密教である。
小乗仏教はかなり下のほうにランキングされている。
つまり、空海は――学者先生たちはよう言わんことだと思うが――「釈迦より俺のほうが上だ!」と言っているも等しい。
O川R法も真っ青だ。
21番太龍寺・南の捨身ヶ嶽の空海像
現世肯定・性愛礼讃という一見「反仏教的」な空海の教えについて思うとき、ソルティの頭には2人の人物の名前が浮かび上がる。
泰範と高丘親王。
両人とも空海の弟子、それも十大弟子に数えられた賢僧である。
もともと最澄の一番弟子で次期天台宗トップと目されていた泰範は、思うところあって師の最澄から距離を置くようになった。
それが、最澄に強引に誘われ、渋々空海に会いに行ったのがきっかけとなって、長年私淑した恩師を捨て空海の元にとどまることになった。
最澄から空海へ――。
理由はいろいろ推測されているけれど、本当のところは分かっていない。
司馬によると「自分は戒を守れぬダメ坊主だ」といった類いの言葉も残しているらしいので、ストイックで生真面目な最澄のもとにいるのが辛くなったのかもしれない。
(泰範は美青年だったらしく、空海による「念弟横取り」というボーイズラブ説もある)
いずれにせよ、この泰範事件が最澄と空海の決裂を招いた一因となったことは間違いないようである。
恩師の度重なる懇願(「私を捨てないで!」)を振り切って空海に走った泰範であるが、その後は特に目立った活躍もなく、真言宗一僧侶に終わったようである。
同じ十大弟子と称された高丘親王(出家名は真如)は、空海亡きあと、東大寺大仏修復の総責任者に任じられている。
言うまでもなく日本国一番の寺院、一番の仏像である。
その修復の総責任者を任されたということは、高丘親王は当時誰もが認める平安仏教界のトップ存在で、空海の衣鉢を継ぐものだったのだろう。
(もっとも、平城天皇の第三皇子であった彼の出自が貴族社会の中でものを言わないわけがない)
その高丘親王、齢六十を越えて驚くべき決断をする。
真の仏法を求めインドに向けて旅立ったのだ。
それも遣唐使として国に命じられて行ったのではない。
あくまで個人の意思で、個人の力で。
高丘親王の志の高さや勇気に賛嘆惜しまぬソルティであるが、一方、こうも思うのだ。
「つまるところ、高丘親王は空海の教え(=密教)では納得できなかったのではないか?」
「密教=真の仏教」と確信できなかったからこそ、人生の最後の最後に、多くの弟子にかしづかれる安穏なる京(高野?)の生活を捨てて、旅先で屍を埋める覚悟でインドに旅立ったのではないか?
空海から釈迦へ――。
空海から釈迦へ――。
空海を巡る2人の弟子のスピリチュアル遍歴を思うとき、昔も今も「悟り」を求める人間の迷いは尽きぬものだなあ~としみじみ思うのである。