歩き始めて2週間くらい経過した頃であろうか?
性欲の高まりを感じるようになった。
遍路ころがしの山々を無事クリアして、筋肉痛や足のマメも峠を越えて、連日20キロの歩きを苦痛に思わなくなってきた。
最初の頃に感じた緊張や戸惑いや不安も遍路生活に慣れるにしたがい薄らいで、ある程度の自信と余裕が生まれてきた。
行けども行けども海ばかり、という高知のへんろ道はアップダウンが少ないので、肉体的にも余裕をおぼえるようになった。
そんな頃である。
一つは、純粋に肉体的な働きで、思春期から青年期をピークとしその後は年齢と共に低下していく部分である。
性ホルモンや体力や生殖器の働きに左右される、人間が動物であることに由来する自然の力。
「精力」と言おう。
これを司るのは肉体(自然)である。
もう一つは、自我と結びついた性的願望で幻想とか妄想に関わる部分。
性を手段とした「自我充足」とでも言おうか。
これを司るのは心である。
性を手段とした「自我充足」とでも言おうか。
これを司るのは心である。
第一の部分「精力」は性的エネルギーそのものであり、第二の部分「自我充足」はエネルギーの注がれる方向や形式を決定する。
人間以外の動物の性欲は、第一の部分が大きく占める。
動物の精力は繁殖期に最大に高まり、生殖のための肉体的機序は整い、相手を見つけて子供をつくり、それが終わるとどこかに消えてしまう。
人間の場合、加齢によって精力が低下しても、性欲そのものはさほど低下しないのは誰もが知るとおり。
それは、自我充足という第二の部分は加齢と関係なく存在し続けるからである。
だから、生殖のための機能はとうに喪失してしまったのに、セックスの機会を探し求める高齢者というものが存在する。
遍路中ソルティが感じた性欲の高まりというのは、第一の部分すなわち精力についてである。
精力の高まりは、実に何十年ぶりの再会という感があった。
よもや復活するとは思っていなかった。
年相応に弱くなっていたし、そこに不可逆性を見ていた。
何事につけ「年だから仕方ない」と潔く諦めがちなソルティは、ユンケルや黒マムシドリンクを飲んだり、うなぎやスッポンを食べたり、局部に寒冷療法を施したりするご同輩(中高年男性)を冷ややかな目で見ていた。
「そもそも精力が復活したところで、活用する機会がないからだろう?」と返されればそれまでだが・・・・・
![](https://parts.blog.livedoor.jp/img/emoji/2/ic_swirl.gif)
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で、この復活の一番の原因を探ったときに思い当たったのが「歩く量」であった。
もちろん精神的要因はある。
旅(=非日常)の解放感とか、広大なる海を前にして野性が感応したとか・・・。
また、遍路前の日常生活で蓄積されていたストレスの軽減が、神経系やホルモン系に作用したのは間違いなかろう。
が、より直接的な原因として実感されたのは、下半身の筋力の増強、とくに太ももの筋肉との連動であった。
太ももの筋肉が付いてくるに連れて、精力がよみがえってくるような感じがした。
あたかもそれは、太ももの何グラムという筋肉量の変化がサーモスタットとなって、すぐ上にある睾丸が脳にデータを送り始め、それを解析した脳が下垂体に性ホルモンを投与する指令を出し、それによって性的機能全般の向上を呼びいけた――といったふうであった。
もちろん精神的要因はある。
旅(=非日常)の解放感とか、広大なる海を前にして野性が感応したとか・・・。
また、遍路前の日常生活で蓄積されていたストレスの軽減が、神経系やホルモン系に作用したのは間違いなかろう。
が、より直接的な原因として実感されたのは、下半身の筋力の増強、とくに太ももの筋肉との連動であった。
太ももの筋肉が付いてくるに連れて、精力がよみがえってくるような感じがした。
あたかもそれは、太ももの何グラムという筋肉量の変化がサーモスタットとなって、すぐ上にある睾丸が脳にデータを送り始め、それを解析した脳が下垂体に性ホルモンを投与する指令を出し、それによって性的機能全般の向上を呼びいけた――といったふうであった。
むろん科学的根拠はない。
が、歩くことが、それも日常ではあり得ないほどの距離と時間を歩き続けることが、精力向上につながったのは間違いない。
歩き遍路回春術と呼ぼうか(改悛でないところがご愛嬌)
やはりそれは、こっぱずかしくも嬉しい出来事であった。
が、歩くことが、それも日常ではあり得ないほどの距離と時間を歩き続けることが、精力向上につながったのは間違いない。
歩き遍路回春術と呼ぼうか(改悛でないところがご愛嬌)
やはりそれは、こっぱずかしくも嬉しい出来事であった。
ソルティがそう思ったのだから、たぶん歩き遍路の男達も同じように感じていることだろう。
これも一つの遍路の効用、魅力なのかもしれない。
オジサン連中が四国遍路にはまる密かな理由になっているのかも・・・。
これも一つの遍路の効用、魅力なのかもしれない。
オジサン連中が四国遍路にはまる密かな理由になっているのかも・・・。
別格14番椿堂(常福寺)の福の神
残念ながら(?)遍路中ソルティは五戒を守っていたので、よみがえった精力は翌日歩くための活力に変換されるだけであった。(だから結願できたのだ)
四国を何巡もしていて余裕のあるオジサン遍路の中には、一人で歩いている若い女性遍路を見ると何かにつけ話しかけ、いろいろと「ご指南」しようとする、あわよくば・・・・・それが歩く目的になっているような御仁もちらほら見受けられた。
心の中で「ナンパ遍路」とか「ハイエナ遍路」と命名させてもらった。
四国を何巡もしていて余裕のあるオジサン遍路の中には、一人で歩いている若い女性遍路を見ると何かにつけ話しかけ、いろいろと「ご指南」しようとする、あわよくば・・・・・それが歩く目的になっているような御仁もちらほら見受けられた。
心の中で「ナンパ遍路」とか「ハイエナ遍路」と命名させてもらった。
修行や贖罪や供養を目的とする真面目な遍路にしてみれば、彼らの姿は邪道、堕落と映るかもしれない。
だが、空海的(=密教的)にそれは「清らかなる菩薩の境地」であってみれば、ありのままの人間の姿として大らかな目で見るのがふさわしいのだろう。
女性遍路が迷惑していない限りにおいてであるが・・・。
だが、空海的(=密教的)にそれは「清らかなる菩薩の境地」であってみれば、ありのままの人間の姿として大らかな目で見るのがふさわしいのだろう。
女性遍路が迷惑していない限りにおいてであるが・・・。
性欲が――第一の意味であれ、第二の意味であれ――凡夫の「生きる力」になっているのは間違いあるまい。
ともあれ、今年もたくさん歩きたい。
55号線沿いにそびえる夫婦岩