2018年河出書房新社
在野の民俗研究家である筒井功(1944年生まれ)の最も新しい本は、「被差別民の起源を問う、すなわちエタ(穢多)差別の根本原因を立証する」という、民俗学のみならず、日本の歴史的にも文化史的にも、はたまた宗教史的にも、重要にしてすこぶる野心的な試みである。筒井は『猿回し 被差別の民俗学』(河出書房新社)でもこのテーマについて触れているが、今回は堂々と正面に据えて、本格的に論じ、世に問うている。
エタは、あるいはエタと同様の差別を受けていた人びとは、その根源までさかのぼっていけばいくほど、イチすなわち呪的能力者の姿に近づく。彼らは元来は畏敬の対象であった。ことに、その能力が正当に発揮されたとみなされたときは、神に対すると同じような尊崇を受けた。ただ、神との仲介に失敗すれば、きびしい罰が待っていた。呪的能力者はもともと、そのような両義的存在であった。
それに加えて、時代がすすむにしたがい、合理的思考が社会に根づいてくると、イチそのものの零落が始まる。病気が治ったり、雨が降ったりするのは神のせいでも神に祈りをささげる者、つまりイチのせいでもないことに人びとが、だんだん気づくようになったのである。卑見では、これがイチ(エタ)差別の根源である。
イチとエタは本来、同語であり、エタ差別とはイチ(呪的能力者)差別にほかならない。(標題書より)
猿回しはもちろん、箕づくり(サンカ)、犬神人(いぬじにん)、渡し守(タイシ)、牛馬の生贄による雨乞い、祭礼の先導役、葬送風俗、地名など、これまでの筒井の調査・研究対象の多くが上の説を立証する根拠として用いられている。論じるにあたっては、時代と地域を縦横無尽に走査して示し出される文献(官のものも民のものも)の数々と、筒井の本領である地道な長年のフィールドワーク(聞き取り)とが、緊密に結合し、「これでもか、これでもか」とばかり繰り出される証拠に圧倒される。
題材的にも内容的にも、筒井民俗学の総括的性格を備えた記念碑的作品といった趣きがある。
『猿回し 被差別の民俗学』を読んだ時からソルティは筒井の「イチ転じてエタ」説に感銘を受けたし、説得力ある、蓋然性の高い説だと思った。
本書中で触れられているが、西洋にもまた同じような職業の人々――大宇宙と小宇宙をつなぐ特異な能力を持つ存在――に対する、同じような差別の歴史があったことを著名な歴史学者の阿部謹也が記している。
心の底で恐れを抱いている人びとが、社会的には葬られながら、現実に共同体を担う仕事をしているという奇妙な関係が成立したのです。このような状況のなかで、一般の人びとも、それらの職業の人びとを恐れながら遠ざけようとし、そこから賤視が生じるのだと私は考えます。(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』ちくま文庫)
西洋の場合、大自然とつながる呪的能力者の零落の大きなきっかけとなったのはキリスト教の伝播及び浸透と阿部は述べている。ミシュレの『魔女』はまさにその様相を赤裸々なまでに残酷に描破している小説であろう。
日本の場合は何がきっかけになったのだろう?
仏教か?
儒教か?
武家政権の登場(天皇親政の終焉)か?
筒井説にあえて難を探すとしたら、「合理的思考の形成」にのみイチ零落の理由を求めるのはいささか弱い気がする。
とくに日本人の場合・・・。
評価: ★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損