1957年発表
1987年角川文庫

太平洋戦争中(1945年)に実際に起こった九州大学生体解剖事件を素材とした小説。

九州大学生体解剖事件は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。

手術方法は、主に次のとおりであった。
・血管へ薄めた海水を注入する実験
・肺の切除実験
・心臓の停止実験
・その他の脳や肝臓などの臓器等の切除実験
・どれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るための実験
(ウィキペディア「九州大学生体解剖事件」より抜粋)

海と毒薬


 遠藤はこの事件を小説化するにあたって、勝呂(すぐろ)医師というキャラクターを創造し、当時医学部研究生であった勝呂の目を通して事件のあらましを振り返るという手法を取っている。
 とは言え、これは実際の事件の解明を図ったものではない。人の命を救う医療という職に就く者たちが捕虜の生体実験という残虐な行為にどのような過程で至ったかを描くことで、日本人の罪意識のありようを、否、罪意識の無さを問うたのである。
 テーマは、日本人の罪悪観である。

 西洋人の罪悪観を形づくる根本がキリスト教にあるのは言うまでもない。
 悪いことをしたら神に罰されて地獄に落ちるという理が、多かれ少なかれ、西洋人の意識の奥にある。そこでは、神と自分は十字架の前で「1対1」で向き合っているので、周囲の目や社会の法は二の次である。神を前にしたときに自分の行為は正しいのか否かという自問自答から「良心」が生まれる。

 一方、日本人の罪悪観を形づくる大きなものは「恥と世間体」である。世間に迷惑かけた、後ろ指さされるようなことをした、周囲の調和を乱したというのが、日本人のもっとも恐れるところである。 
 むろん日本にも、殺戮の好きな神道の神々はともかく、因果応報や天国・地獄を説く仏の教えはあったし、「お天道様が見てるよ」という庶民の決まり文句もあった。宗教的な縛りがなかったわけではない。が、日本の神仏たちはキリスト教の神ほど厳しくないし、今や日本人は信心を失ってしまった。日本人の行動を律する最大の掟は「恥と世間体」であろう。(有名人がなんらかの事件を起こして謝罪する際の決まり文句の一等は「お騒がせしてすみません」である)
 
 勝呂と同じ研究生で生体実験に関わった戸田の手記にこんなモノローグがある。

 そのくせ、長い間、ぼくは自分が良心の麻痺した男だと考えたことはなかった。良心の呵責とは今まで書いた通り、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰に対する恐怖だけだったのである。

 他人の眼(世間体)と社会の罰(法)のみを規範とする行動は、反面、この二つによって罰しられないことが分かっているとき、平気で悪に染まることになる。このあたりを描いたのがヴィスコンティの遺作『イノセント』であった。そこでは、神を信じない西洋人の罪悪感なき悪行が描かれている。もっと単純な比喩を出すなら、「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。
 
戦争のような非日常的な状況にあっては、他人の眼(世間体)と社会の罰(法)の善悪ベクトルは簡単にひっくり返る。平和な世なら、たとえば外人観光客一人を殺しても大罪だが、戦時中に敵対国の兵士100人殺したら英雄である。そんな状況下、同調圧力に弱く、確たる信仰を持たない日本人が、周囲に流されて、また様々なレベルの欲望や八分される恐怖に負けて、残虐な行為に手を染めてしまう。九州帝国大学で起きたようなことは、731部隊をはじめあちこちの戦地であったことだろう。
 ソルティ自身がもし勝呂の立場にいたとしたら、生体実験を告発できたか、いやそもそも上司の参加命令を拒否できたか? 正直自信はない。

 最初の生体実験を終えたあとの戸田のモノローグ。

 変わったことはないんや。どや、俺の心はこんなに平気やし、ながい間、求めてきたあの良心の痛みも罪の呵責も一向に起こってこやへん。一つの命を奪ったという恐怖さえ感じられん。なぜや。なぜこんなに無感動なんや。
 
 遠藤周作は、この医師の卵にして生まれながらのエリートたる戸田の来歴にかなりのページを割いている。
 様々なエピソードから見えるのは、幼いころより戸田が、親や教師をはじめ周囲の大人たちから期待される通りの人間(=見栄えのいい優等生)を演じ続けてきたということである。「他人の眼」と「社会の罰」のみ恐れる大人たちの価値観を、戸田少年が内面化していくのは自然なことと言える。期待像を演じ続けて自らの本当の感情を抑圧し続けた結果、いつしか感情鈍麻になる。戸田の「無感動」の原因はそこにあるのではないか。

 70年以上前にあった事件、本書が書かれたのは60年以上前だが、いまもって考えさせられるところの多い重要な作品である。



評価: ★★★★


★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損