1965年中央公論社
1970年新潮文庫

 函館刑務所ブックカバーの栄えある第一号は、三島由紀夫であった。なんかしっくり来る。当人も草葉の陰で喜んでいることであろう。

IMG_20190208_050507


 未読かと思ったら、途中で既読と気がついた。『重力ピエロ』の時のようにギブアップこそしなかったけれど、三島の小説としては失敗作にあたると思う。
 オルガズム(=音楽)を感じることができない、若く美しい女性の心の謎を精神分析医が追究する、というテーマ自体は興味深い。診療中に嘘を繰り返し、行方をくらまし、突飛な言動をする患者に有能な分析医が翻弄され、状況が二転三転するミステリー風プロットも巧みである。
 だが、小説としては何というか肉体性に欠ける感が否めない。人工的すぎる。

 三島の作品は『仮面の告白』にしろ『金閣寺』にしろ、そもそも精神分析がかった理屈っぽいところがある。それをキラ☆キラしい言葉と類いまれなる修辞の衣装で粉飾している。漁村の若者の初恋という肉体性讃美のテーマを持つ『潮騒』だって、肝心の潮の香りが感じられない。別の言葉で言えば、土俗性に欠く。この対極に来るのが、初期の大江健三郎や中上健次ではなかろうか。

 分析と修辞——それが三島由紀夫の芸術でありスタイルなのだから、これは欠点ではなく特徴というべきだろう。三島が海外でこれほど高い評価を得ているのも、日本文学の外国語への翻訳によって生じざるを得ない日本的土俗性の消失という致し方ないマイナス点について、三島作品が最初から関与していないところに理由の一端があるような気がする。分析と修辞なら、翻訳の粗い網目をたやすく通り抜けるからである。

 『音楽』を読んでいてつらいのは、そもそも精神分析がかった三島ワールドに本当の精神分析医が登場して、専門用語を振り回して、人間の心を詮索するからである。そこに最早キラ☆キラしい言葉や修辞の衣装をお披露目する余地はない。かといって、それに代わる気の利いた普段着(たとえばユーモア)も見られない。結果、無味乾燥。
 主人公の女性が「音楽」を聴くことができないのは、過去の近親姦トラウマが原因ではなくて、肉体性に欠如したこの文体ゆえではないか——と思ってしまうのである。(その意味では、極めて三島的な作品と言える)
 
 函館刑務所のブックカバーが不思議と似合ったのは、虜囚達の放つ肉体性によって釣り合いがもたらされた錯覚ゆえかもしれない。




評価: ★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損