2018年角川書店
本作のモデルとなっているのは、2014年神奈川県川崎市の有料老人ホームで起きた「アミーユ川崎入居者連続殺人事件」である。夜間、施設の上階のベランダから複数の入居者が転落死し、夜勤に入っていた職員が逮捕された事件である。当時、介護現場で働いていたソルティは、他人事でない怖さを覚えたものである。
他人事でないというのは、高齢者虐待の最たる原因は介護者のストレス(怒りや絶望や無感覚)にあり、介護職員のストレスはいずこの介護現場も多かれ少なかれ存在するからである。業務の多忙さ・煩雑さ、尋常でなく世話のやける利用者、目の離せない認知症患者、口うるさい家族、夜勤による生活リズムの乱れで疲れの取れない身体、休憩もまともに取れず有休消化など夢のまた夢、なにより命を預かっている責任の重さ、にもかかわらず低い賃金・・・。どんなに優しく忍耐力ある介護職員でも、利用者にムカッとなったことがない人は稀だろう。ソルティも何度ムカッとなったことか。
ソルティのいた施設は、どちらかと言えば裕福な人が住まう地域にあった。優秀な人材が規定数どおり揃っていたし、労働条件はしっかり守ろうという空気があった。緊急時でなければ休憩時間はちゃんと休めた。有休もある程度は取れた。数ある介護施設の中では、職員にやさしい職場だったのではないかと思う(よそを知らないので比較できないのだが)。介護保険制度前からの社会福祉法人だったという点は大きいだろう。
介護保険制度後、うわべだけの福祉理念を振りかざす利益最優先の介護企業が続々登場した。そういうところではスタッフの労働環境は二の次にされるから、たまるストレスの半端ないことは容易に想像される。また、誤解を恐れずに言えば、上記の事件があったのが川崎という昔から低所得者層の多い地域であったことも、無視できない一因だと思う。本人にも家族にも施設を選ぶ余裕などないからである。
条件が一つ違えば、ソルティのいた施設でも、あるいはソルティ自身が、高齢者虐待を行ってしまうリスクはあった。他人事ではない。
アミーユ川崎事件の被疑者(1審で死刑判決、現在控訴中)の動機がどんなものかは知らないが、警察は「介護のストレスから犯行に及んだ」とみているらしい(ウィキ「川崎老人ホーム連続殺人事件」参照)
しかるに、この小説の主人公である介護士Kの殺人動機は、たんなる怒りやストレスではない。そこがこの小説のユニークなところであるとともに、怖いところでもある。
若くルックスにすぐれ、仕事熱心で親切で、入居者(特に女性の)から慕われ、感心にも将来は医者を目指しているK(恭平)は、職場に飾られた入居者の写真を見てこう独白する。面会に来た家族に見せるための催し物の折の写真である。
車椅子に座らされた老人の仏頂面、早く終わらないかと苦痛に耐えるしかめ面。よく見れば、半分泣いているような人もいる。折り紙させられ、童謡を歌わされ、職員が扮した鬼に豆の代わりの落花生を投げさせられる。楽しいふりをしているが、心の中では幼稚園児のように扱われることに忸怩たる思いが渦巻いているにちがいない。
この先、いくら頑張っても、事態が好転することはない。老いては衰え、不如意が増えるだけだ。老人を介護するということは、不幸を長引かせることではないのか。世間は猫なで声で「いつまでも自分らしく」とか、「老いても元気に明るく」などと調子のいいことを言っているが、実態は悲惨の極みだ。
元気な高齢者もたしかにいる。しかし、それはごく一部だ。死にたいという者にまで生きろというのは、健常者の驕りではないのか。それは一種の虐待だと恭平は思う。
少しでも入居者に喜んでもらおうと頑張ってきたが、介護が虐待につながるとしたら、いったい自分は何をしているのか――。
著者の久坂部は、介護士Kの動機として、怒りやストレスでなく「善意」を設定したのである。つまり、もはや「死」しか解放手段がないほど苦しんでいる高齢者に対し、それを提供するという動機である。
介護現場にいたソルティは、このKの動機を絵空事とか理解困難とか常軌を逸しているとか、一概に決めつけることができない。長く生きたばかりに、老いの苦しみを残酷なほど峻烈に味わわされている利用者をこの目で見てきたからである。「殺してくれ」と哀願する人や自傷行為を行う人も一人や二人ではなかった。(いったん施設に入ったらまず自殺はできません)
だが、介護現場を知らない世間一般は「善意」という動機をすんなりとは理解できないだろう。
そこで著者は、悲惨な老いの現実をこれでもかこれでもかとばかりに描き出す。一人一人の丁寧なケアにまでとても手が回らない介護現場の殺気立った様子も描き出す。さらに、Kに影響力をもつ黒原という医師を登場させ、日本の高齢者福祉対策の限界、今後の危機的状況をデッサンさせ、死を肯定する論理を語らせる。
今の日本は自由で豊かで安全な国だ。だから、情緒的軟弱が蔓延している。優しさ、共感、思いやり。そういうものは一見、よさそうに見えて、実は人々を堕落させる。必要なのは忍耐、克己、死をも恐れない信念だ。
「自分をごまかすことなく、甘っちょろい期待や、まやかしの希望にすがることもせず、現実を直視し続ける強さ」といった知的強靭さを推奨する黒原は、おのれの信念に殉じたのかどうか知らぬが、専門家ならではの技術を用いて安楽自殺してしまう。
著者は現役の医師でもあるらしい。日本の福祉医療の状況はもちろん、介護現場の大変さにも要介護高齢者の苦しみにもくわしいことが知られる。なんとなくこの黒原という医師は、著者のネガティブな面の分身のような気がする。
警察やマスコミの包囲網が狭まるなか、ついにKは、自分を取材してきた女性ルポライターに「善意からの殺人」を告白し、自首し逮捕される。死刑される望みを口にさえして――。
警察やマスコミの包囲網が狭まるなか、ついにKは、自分を取材してきた女性ルポライターに「善意からの殺人」を告白し、自首し逮捕される。死刑される望みを口にさえして――。
ところが、どっこい。
苦しむ高齢者を見るに見かねての善意の殺人という動機で最後まで持って行くのかと思ったら、そうではなかった。Kは自供を翻し、弁護人を変えて、一転無罪を主張し始める。自白はルポライターに「そそのかされた」と言う。
結局、Kは一人のサイコパスに過ぎなかったのである。
この結末のつけ方でテーマがぼやけてしまったように思われる。
疲弊する介護現場、安楽死の是非、日本人の死生観・・・等々、せっかくの問題提起が、反社会的人格障害といった個人要因レベルに引き落とされてしまった。すべては一人の常軌を逸した男が悪いという結論に収斂されてしまった。
後味の悪い、デモーニッシュな余韻ばかりが残った。
苦しむ高齢者を見るに見かねての善意の殺人という動機で最後まで持って行くのかと思ったら、そうではなかった。Kは自供を翻し、弁護人を変えて、一転無罪を主張し始める。自白はルポライターに「そそのかされた」と言う。
結局、Kは一人のサイコパスに過ぎなかったのである。
この結末のつけ方でテーマがぼやけてしまったように思われる。
疲弊する介護現場、安楽死の是非、日本人の死生観・・・等々、せっかくの問題提起が、反社会的人格障害といった個人要因レベルに引き落とされてしまった。すべては一人の常軌を逸した男が悪いという結論に収斂されてしまった。
後味の悪い、デモーニッシュな余韻ばかりが残った。
評価: ★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損