2018年清流出版

 小池龍之介は、『考えない練習』(小学館)、『坊主失格』、『“ありのまま”の自分に気づく』などの著書で知られる1978年生まれの東大出のお坊さん。2011年に浄土真宗本願寺派を破門されて、以後まったくの独自路線を歩んできた。
 むろん、独自路線=釈迦路線である。

 
 本書を通して、人が自覚している「私」というものは幻覚であり虚像にすぎず、それが分かれば、「自然=運命」の流れにスムーズに沿って、自在に生きられるということを記してまいりました。
 「私」という幻覚こそが、「自然=運命」と敵対するがゆえに、無用な苦しみを膨大に背負わされてしまう元凶なのです。
 「この私」「私のもの」「私にこんなことをされた」「私がこんなことをした」といった幻覚に惑わされずに済むなら、とっても晴れ晴れと、時々刻々を過ごしていられるのです。


 ソルティ流に解釈する。本来、

 自然(ダルマ)=運命   私

であるので、それに則って生きていれば問題ないものを、

 自然(ダルマ)=運命    私 

と錯覚して、運命=自然に逆らって生きようとするから、様々な軋轢が生じ、苦しみが生まれる。
――ということになろう。激流に逆らって泳ぐメダカは、そりゃあ、苦しいでしょう。


急流



 自然(ダルマ)とは何か。
 
 自然とは、すべてをその内部で発生させては、やがて滅ぼし、また次のものを生じさせては滅ぼしてゆくような、ありとあらゆる消滅変化の源に他なりません。当然ながら、ヒトもその力によって生まれて、老い、死んでいきます。ヒトが、ヘンテコなことを考え、良いことも時には考え、不自然なことも考え、時には自然なことも考えるといった、そうした思考現象すら、自然の法則に従って生じ、消えていく。


 仏教の「諸行無常、諸法無我、一切行苦」がこの世の法則(ダルマ)である。

 人の運命もこの法則からは逃れられない。
 わかりやすい例が、どの時代にどの国に生まれるか、どんな親のもとにどのような肉体や容姿や才能を持って生まれるか、どのようなしつけや教育を受けて育てられるか、どんな性格や価値観が出来上がるか、誰と出会い誰とウマが合うか・・・・・等々。こうした事柄は「私」によって決められたことではない。生まれる前の「私」が自ら設計したことではない。気づいたらそういう「私」だった、というところから人生をスタートしている点は、誰でも頷けるところであろう。
 いや、過去はともあれ、未来については違うのではないか、「私」は自分の意志と選択で運命に立ち向かい、それを切り開くことができるではないか、と言いたくなるけれど、その意志と選択さえ運命の一部である。気に食わない容姿を整形手術で変えて運命の流れを好転させようと目論むとき、その願望なり意図も運命の一部なら、その結果訪れた成功なり失敗もまた運命の一部である。
 
 誰もが、運命=自然とは異なる何かを欲望して、もがき回ります。が、そうしてもがく欲望をも運命は上手に手のうちに収めることで、動いているのです。


 この仕組みを理解することを困難にしている最大の原因は「私」にある。確固たる「私」というものが運命とは切り離されたところに存在しているという錯覚が、「運命v.s.私」という、ストレスフルで実りの少ない――が、ある意味スリリングでリア充たっぷりな――戦闘ゲームを開始させるのである。
 むろん、途中経過がどうあれ、「運命v.s.私」の闘いは「私」の負け戦に終わる。いかなる勝者も、最後にやって来るラスボス「老いと死」という自然法則(=運命)には勝てないからである。
 

 人が瞑想によって悟るのは、「私」と思われているものが、実のところ、心理的過程(ナーマ)と肉体的過程(ルーパ)の二本の流れの過去からの集積であり、一時的な決着点にすぎない――ということである。過去の心理的過程の連鎖が今の「心」をつくり、過去の肉体的過程の連鎖が今の「肉体」をつくっている。この連鎖を「輪廻」と呼び、連鎖の仕組みを「因縁」と呼ぶ。すなわち、原因―結果―原因―結果―原因―結果・・・・・・・・・。
 今生じた「私」の意図や願望もまた、過去にその原因を持っている。たとえば、「整形手術がしたい」という願望を分析すると、「整形手術というものがある」「それで成功して運命好転した人がいるらしい」「自分には手術できるだけのお金と環境と度胸がある」「親にもらった体にメスを入れることを躊躇しないでも良い時代に生まれ育っている」「社会は、男たちは、きれいな女を優遇する」「美しくなることで過去に自分を足蹴にした者どもを見返してやる」・・・・・・といった過去に得た知識と、過去に味わった悔しさなり嫉妬なりの感情と、自分がいる社会的・文化的・経済的環境(これらもまた過去の集積結果である)といったものを土壌(=条件)として生まれたものであることが分かる。
 「私」の言動は、過去からの因縁によって決められており、そこから離れたところに「私」がいるのではない。運命と対峙できるような「私」ははじめから存在していないのである。(念のため、ソルティは整形手術に反対しているわけではありません)
 
 というと、「じゃあ、運命に流されて生きればいいのか?」という問いかけがどこからか飛んでくる。
 これに対しては、こう返すことになる。

何が、運命に流されるのですか?」


カポ~ン


ししおどし

 
 運命の流れに対して、別の何かを望まずに静観していたら、どうでしょう。もがき回る力を使うことで動いていた運命が、もがかず調和することにより、そう、変容を始めるのです。良きほうへと。
  
 悟りの領域に心が安穏としているとき、もはやこの心は満ち足りていて、何も特別なものを必要としないのです。渇望感、渇愛による飢えが消滅しているがゆえに、目の前にあるものを「もっと良くしたい」と願う必要もなく、「何か意味を読みとりたい」と思う必要もない。
 ええ。ただ、目の前のものが、目の前にあるまま。この心は、それに対して何も付け足しませんし、何も引き去りません。



 小池龍之介は、昨年9月24日をもち小池龍之介という名も月読寺住職という地位も捨てて、解脱へ向けての瞑想修行の旅に出たようである。
 どんなお土産をもって帰還するか、楽しみに待ちたい。
 ――という願望が浮かんできた。




評価: ★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損