日時: 2019年3月9日(土)14:00 開演
会場: 武蔵野市民文化会館 大ホール
指揮: 齊藤 栄一
曲目: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 (クック版最終稿)
指揮: 齊藤 栄一
曲目: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 (クック版最終稿)
今回も最初から最後までチャクラが疼きっぱなしであった。胸、みぞおち、股間、眉間、頭頂・・・・楽章が移るごとに、主題が転じるごとに、主要となる楽器が入れ代わるごとに、刺激される部位も目まぐるしく変化し、閉じた瞼の裏側で光が躍った。演奏会が終わって家に帰っても1時間以上、額に温シップしているかのような前頭葉の火照りとマイルドな疼きは続いた。
これが起こるのはその日の演奏が良かったことの証明みたいなもので、事実、齊藤栄一率いるオーケストラ・イストリアの演奏は優れていた。
が、単純に「良かった」とは言えない。なぜなら、演奏が良ければ良いほど、曲のテーマが優れて表現されればされるほど、「つらい」「きつい」と感じざるを得ないのが、このマーラーの遺作たる第10番だからである。つまり、「良かったけれど、つらかった」という矛盾するような感慨で曲を聴き終わった。
指揮棒が下りても少なくとも3分間、ソルティは椅子に深く沈み込んだまま、拍手に加われなかった。マーラーによって、斎藤とイストリアによって、連れていかれた煉獄巡りからなかなか帰還できなかったのである。よくまあ、他の聴衆はすぐさま気持ちを切り替えて拍手喝采できるなあと思った。中には、指揮棒が下りないうちから拍手を始める手合いもいて、あれはさすがに、マーラーの何たるかも、音楽の何たるかも、人生の何たるかも分かっていないお猿さんなのであろう。
一橋大学管弦楽団では「マーラー交響曲9番を毎年演奏する」という伝統があったそうで、そのOB・OGを中心に2015年結成されたイストリアがマーラーとの親和性が高いのも頷ける。

一橋大学国立キャンパスの兼松講堂
第10番を全曲聴いたのははじめてであった。
ソルティの持っているバーンスタイン指揮による「マーラー交響曲全集(ソニークラシカル)」は、第10番は第1楽章しか収録されていない。マーラーがまがりなりにもオーケストレーションまで完成させたのは第1楽章だけで、あとは未完のまま、51歳の生涯を終えたからである。
その後、音楽学者のデリック・クックが、遺された楽譜や関連資料をもとに補筆し、最後まで演奏できる形に仕立て上げた。これがいわゆるクック版である。
なので、今回聴くにあたって、好奇心逸る一方で、第1楽章とそれ以降の楽章とではギャップがあるのではないか、楽章が進むほどに見劣り(聞き劣り?)するのではないかという懸念があった。
が、それは杞憂であった。ソルティレベルの耳では、未完成という事実を知らないで聴いたとしたら、そのことに気づかなかったであろう。
ソルティの持っているバーンスタイン指揮による「マーラー交響曲全集(ソニークラシカル)」は、第10番は第1楽章しか収録されていない。マーラーがまがりなりにもオーケストレーションまで完成させたのは第1楽章だけで、あとは未完のまま、51歳の生涯を終えたからである。
その後、音楽学者のデリック・クックが、遺された楽譜や関連資料をもとに補筆し、最後まで演奏できる形に仕立て上げた。これがいわゆるクック版である。
なので、今回聴くにあたって、好奇心逸る一方で、第1楽章とそれ以降の楽章とではギャップがあるのではないか、楽章が進むほどに見劣り(聞き劣り?)するのではないかという懸念があった。
が、それは杞憂であった。ソルティレベルの耳では、未完成という事実を知らないで聴いたとしたら、そのことに気づかなかったであろう。
第1楽章の悲痛と愁嘆の色合いは凄まじい。作曲中に最愛の妻アルマの不倫を知ったことによるショックが反映しているのか。
第2楽章はリズムの刻み方がとてもユニークで面白い。最後の最後まで新しさを追求し工夫する天才マーラーの面目躍如である。
第3楽章の短さは意外や意外。
あえて言えば、第4楽章がラフ(粗雑)な印象を受けた。が、最後に入る大太鼓には吃驚させられた。交響曲第6番のハンマー音を凌駕する運命からの容赦ない崩壊の宣告。
これが最終楽章まで続き、これまでに獲得され積み上げられてきた生の戦利品すべてが、破壊され、奪われ、なし崩しにされてゆく。残るは死を前にした敗残者がすがりつき慰めとする美しき愛の思い出のみ。なんとも痛切な終焉である。
第10番は未完で良かったのかもしれない。これが完成され演奏されたあかつきには、聴いた後で自殺する人が出ていたのではなかろうか。
第2楽章はリズムの刻み方がとてもユニークで面白い。最後の最後まで新しさを追求し工夫する天才マーラーの面目躍如である。
第3楽章の短さは意外や意外。
あえて言えば、第4楽章がラフ(粗雑)な印象を受けた。が、最後に入る大太鼓には吃驚させられた。交響曲第6番のハンマー音を凌駕する運命からの容赦ない崩壊の宣告。
これが最終楽章まで続き、これまでに獲得され積み上げられてきた生の戦利品すべてが、破壊され、奪われ、なし崩しにされてゆく。残るは死を前にした敗残者がすがりつき慰めとする美しき愛の思い出のみ。なんとも痛切な終焉である。
第10番は未完で良かったのかもしれない。これが完成され演奏されたあかつきには、聴いた後で自殺する人が出ていたのではなかろうか。
マーラーは自らの人生の喜びと苦悩の両方を音楽として表現し尽くすことで、近代人の喜びと苦悩の極限を描いたのだと思う。それこそ、あと一歩超えたら天界で遊ぶことができるほどの喜び、あと一歩超えたら引き戻せなくなる狂気すれすれの苦悩である。
第10番には、ふと交響曲第1番『巨人』を思わせるフレーズが散見される。あの青年らしい希望と野心と不安とに満ちた(「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」byヴェルレーヌ)第1番から幾星霜、かつてあった喜びは次第に影を潜め、潜在下に抑えられていた苦悩が頭をもたげ存在を主張し、「おお、マーラーよ、あなたはこんなところまで己れを追い込んでしまったのか!」と慄然とせざるをえない。
誰よりも高みを目指し、誰よりも美しいものに憧れ、誰よりも多くを求めたがゆえの、すなわち誰よりも強い自意識を持していたゆえの、マーラーの近代人としての典型性がここに成ったのだと思う。
一方で、マーラーの思い及ばなかったことがある。
あの大太鼓の不吉な連打に、ソルティは、ユダヤ人マーラー亡き後のヨーロッパを覆いつくした本物の地獄と狂気を連想せざるを得なかった。ナチスドイツとアウシュビッツである。そこでは人生を始める前に摘み取られていく若い命があまりにもたくさんあった。
生きることの苦しみは、生きられなかった苦しみに比べれば、そう悲惨でも残酷でもないように思われる。少なくともマーラーは、表現する自由と喜びを最後まで保ちえたのであるし、その人生は決して未完ではなかった。
評価: ★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
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