2011年KADOKAWA
2013年文庫化

さみしさサヨナラ会議


 多くの現代人にとって一番の苦しみである「さみしさ、孤独」をテーマにした、頭の良い仏教男子二人の対談本。
 さみしさからの代表的な合法的逃避先である恋愛、セックス、ネット(SNS)といった話題を中心に、「なぜさみしいのか」「どうしたら孤独から抜けられるのか」といった焦眉の問題を、二人の個人的体験も絡めながら、自在に語り合っている。

 頭の良い二人(東大出、慶大出)だけに話が観念的になりがちで、こむずかしい印象を受ける。とくに、宮崎のトークにその傾向が強い。逆に、僧侶である小池が、ドーパミンやら記憶のフラッシュバックやら脳内神経回路といった具体的な生理学レベルで事を説明しようとするあたりが面白い。

小池 : 私たちは誰もが各人の記憶に閉じ込められていて、徹底的に孤立している、と申すことができるように思うのです。言わば、「我、記憶に閉じ込められる。ゆえに我、孤立する」といった風情に。
 こうして孤立しているからこそ人はさみしくなり、それを打ち消せる錯覚を得るために他人とコミュニケーションをしたくなる。


 我々は、「さみしさや孤独や虚しさ」を穴埋めするために、恋愛やセックスやネットに、あるいは仕事やお酒や薬やギャンブルに身を投じるわけだが、当初はうまく機能するかに思えた穴埋め作戦が結局はうまくいかず、元の木阿弥。むしろ、もとの穴が以前より広がっているのを発見することになる。すると今度は、より大きな、より多くの刺激を求めるようになる。これを繰り返しているうちに破綻が訪れるケースも少なくない。(小池がSM嗜好者を例に挙げて説明しているのが面白く、わかりやすい)
 うまくいかないのは、むろんすべては移り変わる(諸行無常)からである。
 
 なら、どうしたらいいのだろう?
 処方箋はないものか。
 
 仏教男子である二人の結論ははじめからハッキリしている。「さみしさ、孤独、虚しさ」の一番の解決方法は、仏教に、お釈迦様の教えに如くはない。
 
 
小池 : 孤独は、打ち消すべきものとネガティヴに思い込まれる限りは、紛らわすたびに快感が生じて、脳内が快感ドーパミン漬けになり、気が狂ってゆくプロセスに巻き込まれます。そのうえ、どちらにせよ根本的には、孤独は絶対に打ち消せないので、負け戦になることは決まっているのですから不毛です。
 ところが、その全く同じ孤独は、「ああ、心はこういう仕組みになってるんだな。仕方ないや」とニュートラルに受け入れられた時、私たちが強く生き抜くための、最良の力にもなるのです。
 
 心の仕組みを知ること――これが仏教の基本である。
 
釈迦 :ものごとは心にもとづき、心を生じ、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。(岩波文庫『ブッダの真理のことば』中村元訳)

 
 対談中の小池の感嘆詞「おやまあ」「いやはや」の使用がどこか漫画チックで面白い。
 


 
評価: ★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損