3月15日(金)はご存知の通り、平成31年度市民税申告書の申告期限である。
ソルティは11日の月曜日にふと思い立って、市役所に申告に行くことにした。郵送でも可なのだけれど、市役所近くの図書館にも行きたかったので、ついでに寄れる。
事前に送られてきた申告書を取り出して机に広げたはいいが、肝心の年末調整票がないことに気づいた。それがなければ、昨年度の収入も、収めた社会保険料もわからない。
いつも公的書類を保管しておく引き出しの中を探したが、見つからない。
そうか!
考えてみたら、昨年8月に仕事を辞めたので、いつもなら12月の給料日に給与明細と共にもらう年末調整票をもらっていないのであった。
申告書の欄外を見たら、年末調整票でなくとも、収入の状況が分かるものがあればいいらしい。昨年もらった給与明細を引き出しに探した。
・・・・見つからない。
そうだった。
昨年9月末に四国遍路に行く前に、旅先で何があるか分からないからと思い、若干の身辺整理をしたのである。その際、辞めた職場の給与明細なんかもう要らないと思って、ごっそり捨てたのであった。
ならば、給与振り込みを記帳した銀行通帳で代替できないものか。
市役所の税務課に電話してみた。
「辞めた会社に電話して、年末調整票をもらってください。今日は月曜ですから、まだ十分間に合いますよ」と言う。
事前に送られてきた申告書を取り出して机に広げたはいいが、肝心の年末調整票がないことに気づいた。それがなければ、昨年度の収入も、収めた社会保険料もわからない。
いつも公的書類を保管しておく引き出しの中を探したが、見つからない。
そうか!
考えてみたら、昨年8月に仕事を辞めたので、いつもなら12月の給料日に給与明細と共にもらう年末調整票をもらっていないのであった。
申告書の欄外を見たら、年末調整票でなくとも、収入の状況が分かるものがあればいいらしい。昨年もらった給与明細を引き出しに探した。
・・・・見つからない。
そうだった。
昨年9月末に四国遍路に行く前に、旅先で何があるか分からないからと思い、若干の身辺整理をしたのである。その際、辞めた職場の給与明細なんかもう要らないと思って、ごっそり捨てたのであった。
ならば、給与振り込みを記帳した銀行通帳で代替できないものか。
市役所の税務課に電話してみた。
「辞めた会社に電話して、年末調整票をもらってください。今日は月曜ですから、まだ十分間に合いますよ」と言う。
役所に行くのはあきらめて、辞めた職場に電話した。
「昨年辞めた者ですが、年末調整票をいただきたいんです」
「あれ? 送られていませんか? 普通はお辞めになられた後、1カ月後くらいにはお送りしているんですが・・・」
「いや~、もらっていないですねえ。手元にないんですよ」
「・・・そうですか。わかりました。じゃあ、今日中に速達で送ります」
「ありがとうございます」
「昨年辞めた者ですが、年末調整票をいただきたいんです」
「あれ? 送られていませんか? 普通はお辞めになられた後、1カ月後くらいにはお送りしているんですが・・・」
「いや~、もらっていないですねえ。手元にないんですよ」
「・・・そうですか。わかりました。じゃあ、今日中に速達で送ります」
「ありがとうございます」
一度開いた申告書をたたんで封筒に入れ、所定の引き出しに戻そうとしたとき、「平成28年度申告書関係」と表に黒マジックで書いてある茶封筒が目に入った。
「まさか・・・・な」
中をあらためた。
「まさか・・・・な」
中をあらためた。
・・・・・あった。
平成28年度の年末調整票や控除に必要な生命保険料払込み証明書など、申告に必要な書類にまじって、元の職場が発行した「平成30年分給与所得の源泉徴収票」が隠れていた。
ちゃんと送られていたのだ。保管する際に、よく考えないで適当な場所に入れてしまったのだ。
すぐに電話をかけなおした。
「すみません。さきほどの年末調整の件、探したら出てきました。送っていただかなくて大丈夫です」
しどろもどろ・・・。
「すみません。さきほどの年末調整の件、探したら出てきました。送っていただかなくて大丈夫です」
しどろもどろ・・・。
しかし、ソルティの中では嘘をついたつもりはみじんもなかった。
つまり、もらったものを不注意で失くしてしまったのに、それを隠して、「もらっていない」と嘘を言ったわけではない。
本当に、「もらっていない」と思っていたのである。
もらったことを完全に忘れていたのだ。
つまり、もらったものを不注意で失くしてしまったのに、それを隠して、「もらっていない」と嘘を言ったわけではない。
本当に、「もらっていない」と思っていたのである。
もらったことを完全に忘れていたのだ。
おそらく、遍路に行く直前に郵便で受け取った時、「年末調整が来た。これは来年3月に申告で必要になるから、ちゃんと保管しておこう」と思ったはずである。そして、「とりあえず、ここに入れておこう」と、引き出しの中で目についた『平成28年度申告書関係』の茶封筒に入れたのだろう。
そのとき面倒くさがらずに、『平成30年度申告書関係』という封筒を別に作ってそっちに入れておいたら、あるいは裸のまま引き出しに入れておいたら、すぐに見つけることができて難儀はしなかった。
ちょっとした手間を惜しんだゆえの失態である。
1976年にロッキード事件が日本を揺るがした時、国会で証人喚問された国際興業グループ創業者の小佐野賢治はこう繰り返した。
「記憶にございません」
このセリフはその年の流行語となった。
小学生だったソルティは、子供心に、「莫大な金をもらったことを覚えていないわけがない。ふざけんな!」と思い、大の大人がこともあろうに国政の場で、平気で嘘をつくことに失望と憤りを覚えた。
「あんな大人にだけはなりたくない!」
しかし、50歳を超えた現在、「記憶にございません」というセリフがあながち嘘いつわりでない、リアリティある文句であることを実感しつつある。
子供の頃や若い頃には思いも寄らなかったくらい、ほんとうに記憶が落ちる。半年前でも覚えていないことが多い。
若年性認知?
そのとき面倒くさがらずに、『平成30年度申告書関係』という封筒を別に作ってそっちに入れておいたら、あるいは裸のまま引き出しに入れておいたら、すぐに見つけることができて難儀はしなかった。
ちょっとした手間を惜しんだゆえの失態である。
1976年にロッキード事件が日本を揺るがした時、国会で証人喚問された国際興業グループ創業者の小佐野賢治はこう繰り返した。
「記憶にございません」
このセリフはその年の流行語となった。
小学生だったソルティは、子供心に、「莫大な金をもらったことを覚えていないわけがない。ふざけんな!」と思い、大の大人がこともあろうに国政の場で、平気で嘘をつくことに失望と憤りを覚えた。
「あんな大人にだけはなりたくない!」
しかし、50歳を超えた現在、「記憶にございません」というセリフがあながち嘘いつわりでない、リアリティある文句であることを実感しつつある。
子供の頃や若い頃には思いも寄らなかったくらい、ほんとうに記憶が落ちる。半年前でも覚えていないことが多い。
若年性認知?
今回の場合、「もらっていない」と言ったから嘘になった。
「もらった記憶がない」→「もらっていない」と早合点して口にしてしまったのだが、「もらった記憶を忘れる」という、いま一つの選択肢が存在したのである。
そしてまた、「もらっていない記憶」というのはそもそも存在しないから、「もらっていない」という証言ほどあてにならないものはない。「もらった」ことを覚えているか、忘れたか、そのどちらかしかあり得ない。
そう、「記憶にございません」と言えば、少なくとも嘘にはならなかった。
自分の記憶力が今や信用ならないことを自覚して、これからは「記憶にございません」をソルティの辞書にゴチックで加えておくことにしよう。
「もらった記憶がない」→「もらっていない」と早合点して口にしてしまったのだが、「もらった記憶を忘れる」という、いま一つの選択肢が存在したのである。
そしてまた、「もらっていない記憶」というのはそもそも存在しないから、「もらっていない」という証言ほどあてにならないものはない。「もらった」ことを覚えているか、忘れたか、そのどちらかしかあり得ない。
そう、「記憶にございません」と言えば、少なくとも嘘にはならなかった。
自分の記憶力が今や信用ならないことを自覚して、これからは「記憶にございません」をソルティの辞書にゴチックで加えておくことにしよう。
P.S. 小佐野賢治は、上記の「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。(ウィキペディア「ロッキード事件」より抜粋)
この画像の意味、若い人には分かるまい