2017年ナチュラルスピリット
今や、ナチュスピと言えば非二元(Non-duality)、非二元と言えばナチュスピである。
本書の巻末にも、昨今欧米で人気沸騰の非二元ティーチャー達の著書の案内が並んでいる。
ダイレクトパス? 悟り系? ネオアドヴァイタ? ・・・・
TV通販の宣伝のような業界用語の羅列に思わず笑ってしまった。どんな素晴らしい教えも資本主義のレールに乗ると、一つの商品にならざるを得ない。
仕方ないところである。
ダリル・ベイリーは1951年カナダ生まれの初老の男。(昨今、「初老」って言葉を何歳か何歳まで使うか難しいところだ)
クリシュナムルティ、キリスト教、ヨガ、仏教、現代心理学、スピリチュアル・マスターへの師事など、さまざまなスピリチュアル遍歴を辿ってきたのはよくある話。中で面白いのは、タイで6年間仏教徒として瞑想修行をしたというところ。タイはテーラワーダ仏教(原始仏教)のお国だから、ダリルはお釈迦さま直説の教え(いわゆる大乗でなく小乗)を学んだであろうし、修行とは「悟りに至る瞑想」と言われるヴィパッサナー瞑想であろう。
そのせいか知らぬが、本書はソルティがこれまで読んだ非二元に関する本の中で、もっとも仏教に近いものを感じた。「非二元と仏教ってどう違うの? 両者の悟りにはどんな違いがあるの?」って常々思っていたので、興味深く読んだ。
クリシュナムルティ、キリスト教、ヨガ、仏教、現代心理学、スピリチュアル・マスターへの師事など、さまざまなスピリチュアル遍歴を辿ってきたのはよくある話。中で面白いのは、タイで6年間仏教徒として瞑想修行をしたというところ。タイはテーラワーダ仏教(原始仏教)のお国だから、ダリルはお釈迦さま直説の教え(いわゆる大乗でなく小乗)を学んだであろうし、修行とは「悟りに至る瞑想」と言われるヴィパッサナー瞑想であろう。
そのせいか知らぬが、本書はソルティがこれまで読んだ非二元に関する本の中で、もっとも仏教に近いものを感じた。「非二元と仏教ってどう違うの? 両者の悟りにはどんな違いがあるの?」って常々思っていたので、興味深く読んだ。
まず、「これはまさしく仏教じゃん」って思った部分。
私たちが観察できるすべてのものは、変化し続けています。もしすべての形あるものが変化し続けているのであれば、存在はある特定の形を持たないということも明白になってきます。
もし、あなたがただ座り、まったく何の努力をしなくても、人生は起き続けます。永遠に変化し続けるプロセスのあなたは、ただ機能し続けるのです。心臓は鼓動を打ち続け、肺は呼吸を続け、感情は変わり続けます。思考や衝動も現れては消え、次の衝動や思考が現れたり、または現われなかったり、こういったダイナミズムが、ただ起きているのです。
上記は、仏教の三法印の一つである「諸行無常」にほかならない。
体の感覚、思い、感情、興味、衝動、思考活動などは、意識的な努力なしに、また主体性なしに自動的に起きてきます。意識的な努力や主体性さえも努力なしに現れてきます。
おそらくある時点で、私たちは現象や自分が主体であるという考えに対して、疑問を抱き始めるでしょう。自分が主体で人生を生きているという物語は、真剣な考察に対して立ち向かえません。そういったファンタジーは、自然と解体されていくでしょう。
上記は、やはり三法印の一つ「諸法無我」そのものである。
この瞬間に起きているあらゆることに、ただ自分の注意を向けることを許してあげましょう。湧いてくる思考ばかりに焦点を置く必要はないのです。見ること、聞くこと、触ること、味わうこと、匂いを嗅ぐことなど、他の要素にもただ寄り添います。これらの言葉にではなく、実際に起きていることにです。
ひとたび、考えることやすることだけに向けられていた狭い焦点がなくなったとき、もっと広く、この瞬間の神秘的な現象が現れてくるでしょう。
上記は、まんま「ヴィパッサナー瞑想」の説明である。
かようにダリルの言ってることは仏教そのものなのである。
つまるところ、「私」という幻想が苦しみの最大の要因だから、それを溶解させましょう――という点で、ダリル(非二元の教え)と仏教はおんなじ、というより巷にある「悟り」あるいは「解放」を目指すスピリチュアルな教えのほとんどはおんなじなのである。キリスト教も、禅も、クリシュナムルティも、ラジニーシ(和尚)も、ラマナ・マハルシも、グルジェフも・・・。
違いは、この「私」という幻想に気づいて「悟り」に至るための方法論を説くか否か、という点にあるように思う。
幻想は言います。「私は個という形あるもので、生命において他の形と分離していて、何か大切なものを失った存在だ。全体性、真実、完結性、完全性を失ってしまった。だから幸せを探さなくてはいけない。世界を操作しなくてはいけない。そして、これら失ったものや欠けているものを再び得るために自分を高め、清めて、統合、完結、悟りという不透明な未来のゴールを遂行しなければいけない」
しかし、これらすべてがファンタジーです。
ダリルやトニー・パーソンズなど非二元のティーチャーにおいては、「悟り」を求めるという行為やそのための方法(瞑想、祈り、断食などの苦行、読経、読書、ワークショップへの参加、ヨガその他もろもろ)もファンタジーであり、無意味と片づけられる。個人が「悟り」を得るためにできることはなにもない、とさえ言う。クリシュナムルティもまた同様である。
たしかに、そもそも幻想であり苦しみの下手人であるところの「私」が、それ自身の努力や熱意によって、当の「私」を解除させると言うのは、矛盾もいいところである。泥棒が、忍び込もうとする屋敷の住人に防犯の心得を説くようなものであろう。「悟り」を追い求める欲望や欠如意識が、「私」という幻想をますます強固にしてしまい、かえって「悟り」は遠ざかってしまう。結果は、「私」の一人勝ちである。
ワ・ハ・ハ・ハ・ハ!
仏教とのいま一つの違いは、「輪廻転生と解脱」思想である。
仏教はいったん悟って、「はい、終わり」とは言わない。「私」の幻想性を悟って、「私」から解放されて、あるレベルの自由と幸福の境地に達したとしても、それは現世だけのことで、生まれ変わったらまた「一からやり直し」になってしまう。前世で悟った分だけ、前世よりは良い境遇に生まれるらしいけれど、生老病死・愛別離苦・怨憎会苦のこの世を再び送らなければならない。(最初の悟りである預流果の場合、最大7回生まれ変わるという)
だから、どうせなら中途半端に悟るのではなく、徹底的に悟って(最後の悟りである阿羅漢果を得て)、この世にもあの世にももう二度と生まれ変わらないようにしなさい、つまり、「解脱しなさい」――というのがお釈迦様の教えである。
非二元の教えには、これがない。
非二元のティーチャー達にとっては、「輪廻転生と解脱」もまたファンタジーに過ぎないのかもしれない。(クリシュナムルティは「輪廻転生」を肯定するような発言をしているが)
いずれにせよ、私たちが色とりどりの様々なファンタジーに囲まれて生きていることは間違いない。ファンタジーゆえに、ファンタジーに翻弄されて、泣いたり笑ったり怒ったり哀しんだり、傷ついたり落ちこんだり立ち直ったりヤル気を出したり、喜んだり夢中になったり得意になったりストレスを溜めたり、心はいろいろにもて遊ばされる。
このファンタジーを「共同幻想」とも「物語」とも言う。
現代は「共同幻想」が成り立たない時代、崩壊した時代と言われる。国民誰もが、等しく関心を持ち、心動かされ、知らずに支配されるような大きな「物語」は、2020東京オリンピック委員会がいくら頑張ったところで、このさき生まれることはないだろう。「お国のため」という「物語」が国土を覆いつくした時代を思えば、生まれて欲しくもない。
現代は、各人がそれぞれ選んだ「物語」に重要性を置き、同じ趣味・嗜好を有する仲間と住んでいる時代、いわゆる「オタク」の時代なのである。(ソルティも「仏教オタク」「スピ・オタク」と言われるにやぶさかでない)
すべての「物語」が潰えたときに、最後の最後まで残るファンタジー。
それが「私」なのであろう。
評価: ★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損