1975年朝日新聞社
2012年新潮文庫
『カルメン、故郷に帰る』、『喜びも悲しみも幾年月』、『二十四の瞳』、『浮雲』など日本映画史に残る名作を含め150本を超える出演作を持つ、昭和を代表する名女優・高峰秀子の半生記である。評判の高さは知っていたが、上下巻750ページの大著ということもあって、なかなか手に取る機会がなかった。
とにかく読ませる。面白い。
プロの文筆家もかたなしの才能はあっけにとられるほど。これで小学校も満足に行っていないというのだから、勉強というのは学校だけでするものじゃないということの何よりの証明である。不登校児の親に読ませたい。
文章の上手さと軽快なリズムは、おそらく子供の頃から多くの名脚本家の書いた様々なドラマのセリフを空で覚えたことによるのではないか。後年の読書だけでは身につかないだろう。むろん、率直で飾らない人柄も大きい。
栗島すみ子共演『母』で映画デビューしたのが昭和4年、当時5歳。そこからほぼブランクもスランプもなし、快進撃のスター街道である。女優としてこれだけ仕事に恵まれた人もそうそうおるまい。
本書では、木下惠介の助監督であった松山善三と結婚した昭和30年までのことを書いている。なので、ちょうど昭和前半(戦前・戦中・戦後)の激動の日本が舞台となっている。
無声映画からトーキーへ、白黒映画からカラー映画へ、時代を彩ったさまざまな映画タイトルや監督や俳優の名前が上がる。単に映画史として読んでも非常に興味深いが、昭和世相史、風俗史、文化史としても読み甲斐がある。神風特攻を控えた少年兵たちを前に慰問の舞台を務める日々が、敗戦するや今度はGHQの米兵相手に娯楽提供に務める日々に変わっていく、その様子を描いたくだりは圧巻である。
「昨日までの自分」と「今日の自分」のつじつまは絶対に合わないはずなのに、私はそれに目をつぶり、過去という頁をふせて見ようともしないのである。なんという現金さ、なんという変わり身の早さ。人気商売とはいいながら、こんなことが許されていいのだろうか・・・。人には言えない、妙なうしろめたさが、私の背後に忍び寄って、夜となく昼となく、とがった爪の先で、チョイ、チョイと私をつつくのだ。
作家としての高峰の才能は、こうした内省力および独自の観察眼を持っているところに表れている。
男たちは戦争をした。男たちは戦争に負けた。自業自得である。ワリを食ったのは女たちである。「付き合いきれない」。それが女たちの本音だった。敗戦を境にして、「女が強くなった」と、私は思わない。けれど、敗戦によって、女がはじめて男の正体というものを識ったのは事実だと思う。
また、高峰の交友の広さというか、各界の巨匠たちからの可愛がられようにも驚く。
歌手の東海林太郎には養女にと懇望され、『広辞苑』の新村出には女神の如く崇拝され、谷崎潤一郎にはしばしば御馳走を振舞われ、梅原龍三郎の絵のモデルになり(東京国立美術館所蔵)、ブギの女王笠置シヅ子と共演し、有吉佐和子を旅先で看病し・・・。
映画関係者にいたっては言わずもがな。黒澤明との初恋に破れ、市川崑を下宿させ、小津安二郎、木下惠介、成瀬巳喜男、入江たか子、杉村春子、原節子、山田五十鈴、田中絹代、大河内伝次郎・・・。次々と出てくるビッグネームは、まさに本書が日本映画黄金期の記録であることを物語っている。それぞれの交流エピソードに興味は尽きない。
ここ数年、昔の映画をずいぶんと見まくってきたソルティ。往年の有名な監督や俳優の顔と名前と芸風とを知った今だからこそ、本書を手に取って良かった。
本書の横糸が高峰秀子という女優の華やかにして「向かうところ可ならざるはなし」の成功の歴史であるとしたら、縦糸は5歳から稼ぎ頭となって働いてきた一人の娘を取り巻く家族模様にある。
複雑な家系で生みの母とも父とも縁薄く、自ら女優になりたかった叔母に引き取られた高峰は、普通の家庭生活を持てなかった。養母に引き回され子役として成功するや、親戚たちは彼女を頼って上京し寄生するようになる。いっときは十人を超える親類縁者や居候を出演料で養った。
養母も本人も金銭管理に疎くどんぶり勘定、モンゴルで馬賊になった挙句に尾羽打ち枯らした兄にたかられ、出演料をプロデューサーにだまし取られ、稼いでも稼いでも出ていくばかり。スクリーンでの健康的で輝く笑顔からは想像もつかない家族関係の悲惨さ、家計の苦しさ。
とくに、ヒステリー気質ある養母との桎梏は凄まじい。
この養母、高峰が自分の稼ぎで念願のダイヤモンドを買えば、「親の私を差し置いて」とヒステリーを起こす。高峰がボーイフレンドをつくれば嫉妬に狂う。高峰の稼ぎで建てた旅館の女将におさまったら、里帰りした娘に高額な宿泊費を請求する。ちょっと常軌を逸している。現代の精神科医なら、「彼女は精神障害です。距離を置いて付き合わないと共倒れになりますよ」と助言するところであろう。
しかし、高峰は最後まで養母を見捨てない。ヘルペスで脳を冒されボケた養母の世話をする。
どんな人間でも、人の一生はそれぞれのドラマだという。しかし、私という人間のドラマの主人公は、私ではなく実は私の母その人であった。私は渡世日記の随所で、くりかえし、母をそしり、恨み、憎み続けた。そこには一片の誇張も嘘もない。が、考えてみれば、私にこうした母がついていてくれたからこそ、逆に、私自身が発奮し、生きることへのファイトも湧いたのだろうと思う。そして、母の狂気にも似た、理屈の通らない恐ろしい目玉が光っていたからこそ、結果的には、私自身がそれほど汚れもせずに、清潔な結婚ができて、今日のような倖せな日々を持つことができたのだろう。
光があれば影がある。
光が強ければ強いほど、影も濃い。
影を拒否して、光だけを求めることはできない。
そんなことを思わせる、昭和を凛と生きた大女優の傑作エッセイである。
評価: ★★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損