1998年文藝春秋
1998年(平成10年)3月20日、福島次郎が文藝春秋社から実名小説『三島由紀夫――剣と寒紅』を発売した。週刊誌などのジャーナリズムは、三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものとして、殊更に人の好奇心を煽るように喧伝した。作中には、三島から福島に送られた15通の書簡の全文も掲載され、それも話題を呼んで注目された。(ウィキペディア『剣と寒紅』より)
20年ほど前にこの本が発売されたのを知ったとき、読もうかどうか迷った。上記のように色物的な売られ方(グィード・レーニ画「聖セバスチャンの殉教」をあしらった表紙カバー含め)が悪目立ちし、「売名と金儲けが目的の作り話まじりの暴露本」という印象を受けた。三島をよく知る作家や評論家による書評もまた、「こき下ろし」と言っていいほど悪いものばかり並んだ。曰く、「不自然にリアルで潤色が感じられる」、「真に迫るような中身がない」、「付き合った相手の悪口を書くのは男でも女でも最低。あの男の小説は卑しい」等々。
こうした風評を真に受けて読むのを止した。当時は、「三島由紀夫も純文学ももう沢山」という気分でもあった。
先日、古本屋の店先で本書が売られているのを見つけた。聖セバスチャンとの20年ぶりの再会が懐かしく、手に取った。100円だった。
福島次郎は1930年(昭和5年)熊本生まれ。子供の頃より自らの同性愛志向に気づく。東洋大学国文科在籍中に『仮面の告白』を読んで衝撃を受け、目黒区の三島由紀夫の家を訪ねたところ、三島のみならず三島の両親にも気に入られ、家族の一員のごと可愛がられる。卒業後、故郷に戻って高校教員となり、仕事の傍ら自伝的小説を地元の文芸誌に発表する。1987年教職を退き、文筆活動に専念。1996年と1999年に芥川賞候補となる。2006年(平成18年)膵癌により死去。享年76歳。
本書は、1951年(昭和26)~1966年(昭和41)まで15年間の著者と三島の交流の回想である。
21歳の福島は、すでに押しも押されもせぬマスコミの寵児であった26歳の三島と出会い、東京のゲイ文化の洗練を受けつつ関係を深め、三島に愛されるようになる。が、主として福島自身の性格上の問題から良好な関係を築くことができず、決裂し、故郷に戻る。10年間の音信不通後、福島が自作の小説を三島に送ったことがきっかけとなって交流復活。『豊饒の海』の取材で熊本を訪れた三島とふたたび関係を持つも、最早両者の溝は埋められようもなく、最終的に三島と袂を分かつ。その4年後、三島は自決する。
こうした風評を真に受けて読むのを止した。当時は、「三島由紀夫も純文学ももう沢山」という気分でもあった。
先日、古本屋の店先で本書が売られているのを見つけた。聖セバスチャンとの20年ぶりの再会が懐かしく、手に取った。100円だった。
福島次郎は1930年(昭和5年)熊本生まれ。子供の頃より自らの同性愛志向に気づく。東洋大学国文科在籍中に『仮面の告白』を読んで衝撃を受け、目黒区の三島由紀夫の家を訪ねたところ、三島のみならず三島の両親にも気に入られ、家族の一員のごと可愛がられる。卒業後、故郷に戻って高校教員となり、仕事の傍ら自伝的小説を地元の文芸誌に発表する。1987年教職を退き、文筆活動に専念。1996年と1999年に芥川賞候補となる。2006年(平成18年)膵癌により死去。享年76歳。
本書は、1951年(昭和26)~1966年(昭和41)まで15年間の著者と三島の交流の回想である。
21歳の福島は、すでに押しも押されもせぬマスコミの寵児であった26歳の三島と出会い、東京のゲイ文化の洗練を受けつつ関係を深め、三島に愛されるようになる。が、主として福島自身の性格上の問題から良好な関係を築くことができず、決裂し、故郷に戻る。10年間の音信不通後、福島が自作の小説を三島に送ったことがきっかけとなって交流復活。『豊饒の海』の取材で熊本を訪れた三島とふたたび関係を持つも、最早両者の溝は埋められようもなく、最終的に三島と袂を分かつ。その4年後、三島は自決する。
一読、面白かった。
かつての風評とは違って、悪い本とは全然思わなかった。むしろ、優れて価値ある三島の評伝、あるいは研究資料の一つと思った。
かつての風評とは違って、悪い本とは全然思わなかった。むしろ、優れて価値ある三島の評伝、あるいは研究資料の一つと思った。
文章はうまく、よどむところなく、分かりやすい。芥川賞候補に2回上げられているだけある。分かりやすさに関してだけなら三島由紀夫以上である。多少の潤色や思い込みによる勘違いはあるだろうが、全般、「不自然」とも「中身がない」とも思えなかった。三島の「悪口を書いた」とも思えなかった。
どこが悪口なのだろう?
発表時においてすでに公然の秘密となっていた三島の同性愛を暴露したことか?
著者と三島のベッドシーンをつぶさに描いたことか?
三島の妻瑤子(ようこ)と母親倭文恵(しずえ)の嫁姑の確執を晒したことか?
三島が泳げなかったことをばらしたことか?
同性愛の暴露=悪口とするなら、同性愛そのものが悪いということになる。本人の許可を得ないで他者が勝手に性的志向をアウティング(暴露)することはプライバシーの侵害になる。が、悪口ではない。本書発表時点、当の三島由紀夫も、三島の両親や瑤子夫人も、この世の人ではなくなっているので、プライバシー云々には当たらないだろう。
確かに三島の子供たち(娘と息子)にとっては、父親の同性愛を大っぴらに暴かれるのは面白くないであろうが、世界的大作家の子供に生まれた宿命と受け入れるほかあるまい。本書出版直後に、彼らは「著作権侵害」で文藝春秋と福島次郎を訴えている。三島の手紙を無断で「掲載・公表・複製」したことが理由である。結果は被告側が敗訴し、本書は絶版となった。(現在、古本屋やネットショップに出回っているのは初版本というわけだ。) ここでも争点は名誉棄損でもプライバシー侵害でもない。書かれていることが事実か否か、三島の名誉を貶めたか否かは問題になっていない。
どこが悪口なのだろう?
発表時においてすでに公然の秘密となっていた三島の同性愛を暴露したことか?
著者と三島のベッドシーンをつぶさに描いたことか?
三島の妻瑤子(ようこ)と母親倭文恵(しずえ)の嫁姑の確執を晒したことか?
三島が泳げなかったことをばらしたことか?
同性愛の暴露=悪口とするなら、同性愛そのものが悪いということになる。本人の許可を得ないで他者が勝手に性的志向をアウティング(暴露)することはプライバシーの侵害になる。が、悪口ではない。本書発表時点、当の三島由紀夫も、三島の両親や瑤子夫人も、この世の人ではなくなっているので、プライバシー云々には当たらないだろう。
確かに三島の子供たち(娘と息子)にとっては、父親の同性愛を大っぴらに暴かれるのは面白くないであろうが、世界的大作家の子供に生まれた宿命と受け入れるほかあるまい。本書出版直後に、彼らは「著作権侵害」で文藝春秋と福島次郎を訴えている。三島の手紙を無断で「掲載・公表・複製」したことが理由である。結果は被告側が敗訴し、本書は絶版となった。(現在、古本屋やネットショップに出回っているのは初版本というわけだ。) ここでも争点は名誉棄損でもプライバシー侵害でもない。書かれていることが事実か否か、三島の名誉を貶めたか否かは問題になっていない。
また、房中の秘事について言えば、福島の記述がたとえ全部事実であるとしても、別に三島の不名誉になるようなものがあるとは思えなかった。三島が5つ年下の福島に、「ぼく・・・幸せ・・・」と新妻のように甘えるこっぱずかしい場面があり、後年の三島の猛々しさを衒った姿を思うと、「当人にとっては」不本意極まりない不名誉なものだろうが、第三者からすれば名誉もへったくれもない。だいたい、房中のことに名誉も不名誉も関係ないってのは、だれしも首肯するであろう。
むしろ、ソルティは、若くしてマスコミの寵児となり「公的な仮面」を被り続けざるを得なくなった三島が、そしてまた本来なら素顔のままでいられる私的領域たる家庭において「ノンケの仮面」を被り続けていた三島が、そんな甘いひとときをわずかでも持てたことに、読んでいてほっとするものがあった。
男の房中の不名誉と言ったら、今も昔も「短小、インポ(不能)、早漏」の3つが挙げられよう。福島によれば、三島の持ち物は「立派」であり、精力ギンギンであった様子だから(あの絶大な創作力を思えば当然至極)、この点でも三島の名誉にこそなれ不名誉ってことはない。逆に、同性愛とともにインポや晩生(おくて)を正直に告白しているのは福島自身であり、その点で福島は勇気がある、というか覚悟を決めてこの小説(「ノンフィクション」とうたっていない)を書いていることが読みとれる。読む者は、その覚悟の深さをこそ察してページを括るべきであろう。
むしろ、ソルティは、若くしてマスコミの寵児となり「公的な仮面」を被り続けざるを得なくなった三島が、そしてまた本来なら素顔のままでいられる私的領域たる家庭において「ノンケの仮面」を被り続けていた三島が、そんな甘いひとときをわずかでも持てたことに、読んでいてほっとするものがあった。
男の房中の不名誉と言ったら、今も昔も「短小、インポ(不能)、早漏」の3つが挙げられよう。福島によれば、三島の持ち物は「立派」であり、精力ギンギンであった様子だから(あの絶大な創作力を思えば当然至極)、この点でも三島の名誉にこそなれ不名誉ってことはない。逆に、同性愛とともにインポや晩生(おくて)を正直に告白しているのは福島自身であり、その点で福島は勇気がある、というか覚悟を決めてこの小説(「ノンフィクション」とうたっていない)を書いていることが読みとれる。読む者は、その覚悟の深さをこそ察してページを括るべきであろう。
不世出の天才作家として、また、世や国を憂えた尚武の人として記述された本の数々――それは貴重なものにちがいないが、またここに結果的に私が書いてしまうであろう「人間として、迷える羊」でもあった三島像を、共に併せて読んでもらうことの方が、作家三島由紀夫さんの供養にもなるのだと思えるようになってきて、筆をとる気になったのである。(本書「序」より)
教員退職後に経済的に逼迫し、手元にあった三島の手紙を神田の古本屋に売り払ったことからも分かるように、福島がまったくの経済的動機抜きで本書を書いたとは思わない。作家として名を売りたいという野心も当然あったろう。
だが、発行から20年を経た今、なるべく虚心坦懐に読んだとき、三島由紀夫という人物の知られざる一面を描き出して、その豊潤なる作品世界の解釈や理解に新たな光を当てるものとして、本書は復刻する価値も一読する価値も十分にあるとソルティは思った。
特に、福島が親しく接する機会を得た三島由紀夫の両親の人となりについての描写(息子を亡くしたばかりの倭文重が、誰も見ていないと思って、鮮やかな紅を差した口元に笑みを浮かべ軽やかな足取りで庭を歩いている――本書のタイトルの由来ともなったシーン――は極めて印象的である)、当時アングラだったゲイコミュニティにおける三島の素顔、熊本取材に訪れた際の徹底した取材ぶり、国粋主義とナルシシズムが結合した晩年の三島の姿など、興味深いエピソードが多々あった。
「作家としての公的な仮面」と「ノンケの仮面」と「国を憂える国粋主義者の仮面」、二重三重の仮面の下にある「素の平岡公威」を描き出そうと福島が試みたときに、性愛の現場にスポットを当てた点に、人間にとっての性愛の意味というものを考えさせられる。「性は生なり」とは至言である。
だが、発行から20年を経た今、なるべく虚心坦懐に読んだとき、三島由紀夫という人物の知られざる一面を描き出して、その豊潤なる作品世界の解釈や理解に新たな光を当てるものとして、本書は復刻する価値も一読する価値も十分にあるとソルティは思った。
特に、福島が親しく接する機会を得た三島由紀夫の両親の人となりについての描写(息子を亡くしたばかりの倭文重が、誰も見ていないと思って、鮮やかな紅を差した口元に笑みを浮かべ軽やかな足取りで庭を歩いている――本書のタイトルの由来ともなったシーン――は極めて印象的である)、当時アングラだったゲイコミュニティにおける三島の素顔、熊本取材に訪れた際の徹底した取材ぶり、国粋主義とナルシシズムが結合した晩年の三島の姿など、興味深いエピソードが多々あった。
「作家としての公的な仮面」と「ノンケの仮面」と「国を憂える国粋主義者の仮面」、二重三重の仮面の下にある「素の平岡公威」を描き出そうと福島が試みたときに、性愛の現場にスポットを当てた点に、人間にとっての性愛の意味というものを考えさせられる。「性は生なり」とは至言である。
その意味でも、本書の今一つの面白さは、これが三島由紀夫の胸を借りた福島自身の青春物語、もっと率直に言えば、福島次郎という男の「ヴィタ・セクスアリス」になっている点である。
驚いたことに、福島は22歳まで自慰を知らなかった、やったことがなかった。自らの同性に対する思慕の念は自覚していたし、夢精もあった。が、タイプの相手なり好みのシチュエイションなりを夢想して自慰にふけるという経験がなかった。つまり、己のセクシュアリティがいかなるものかよく分からないまま成人した。その状態で三島由紀夫との初体験に突入したのである。
当然、うまくいかない。
なぜなら、福島は、出会いから別れまで、三島に対して尊敬や憧憬の念は持っていても、恋愛感情や性欲は持っていなかったからである。だから、事に及んで福島のソレは役に立たなかった。
これは読者の覗き趣味を満たすことを目論んだこれ見よがしのポルノ描写などではない。自分が真に欲するもの、自分にとって必要なものを自覚することができない、性的にも精神的にも未熟な青年が、目の前の相手や状況が期待するであろうことを勝手に「忖度して」その通りに振舞ってしまう、あまりにも不憫な、あまりにも滑稽な、ドン・キホーテさながらの茶番なのである。
驚いたことに、福島は22歳まで自慰を知らなかった、やったことがなかった。自らの同性に対する思慕の念は自覚していたし、夢精もあった。が、タイプの相手なり好みのシチュエイションなりを夢想して自慰にふけるという経験がなかった。つまり、己のセクシュアリティがいかなるものかよく分からないまま成人した。その状態で三島由紀夫との初体験に突入したのである。
当然、うまくいかない。
なぜなら、福島は、出会いから別れまで、三島に対して尊敬や憧憬の念は持っていても、恋愛感情や性欲は持っていなかったからである。だから、事に及んで福島のソレは役に立たなかった。
私には興奮は全くなかった。もちろん嫌悪という感情もない。むしろ嫌悪してはいけないという義務感で、ただ、まっしろの状態だったのかもしれない。男女を問わず、それまで性交渉の経験など全くなかった私である。それゆえに、三島さんの中におこりつつあるつむじ風に相応じる微風さえない自分の膠着状態をとっさに隠そうというつもりだったのか、私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首すじに、激しいキスをしゃぶりつくようにしたのだった。
三島さんは、身悶えし、小さな声で、私の耳元にささやいた。
「ぼく・・・幸せ・・・」
これは読者の覗き趣味を満たすことを目論んだこれ見よがしのポルノ描写などではない。自分が真に欲するもの、自分にとって必要なものを自覚することができない、性的にも精神的にも未熟な青年が、目の前の相手や状況が期待するであろうことを勝手に「忖度して」その通りに振舞ってしまう、あまりにも不憫な、あまりにも滑稽な、ドン・キホーテさながらの茶番なのである。
読む者は、こう突っ込まなければなるまい。
「お前、なんでそこで三島と寝るんだ!?」
「お前、なんでそこで三島と寝るんだ!?」
福島のそういう性的、精神的発展途上を知らない三島は、「強く抱きしめられ、激しくキスされた」という表面的行動のみから、「次郎は俺を愛してくれている」と誤解する。そこから両者のボタンの掛け違いが始まる。福島は自分の晩生事情を説明する言葉すら持たない。最初の決裂。
三島と別れた後、福島は地方の学校教員の職を得る。そこでようやく身近の少年から自慰を教えられ、自らの性的志向に気づく。彼はゲイはゲイでも少年愛者だったのである。
故郷熊本で高校教師になった福島は、己の生徒たちに恋愛感情を抱き、彼らとセックスするようになる。現代ならネットを騒がす破廉恥事件となり、クビは必定である。時代はまだ牧歌的(?)だった。
やっと、己のセクシュアリティに目覚め、好みのタイプを自覚した福島。
ところが、10年の冷却期間ののち、小説の取材で熊本にやって来た三島を案内、接待する栄誉を得た福島は、そこでまたしても同じ過ちを繰り返す。
熊本の最初の夜、ホテルの三島の部屋でのシーン。
故郷熊本で高校教師になった福島は、己の生徒たちに恋愛感情を抱き、彼らとセックスするようになる。現代ならネットを騒がす破廉恥事件となり、クビは必定である。時代はまだ牧歌的(?)だった。
やっと、己のセクシュアリティに目覚め、好みのタイプを自覚した福島。
ところが、10年の冷却期間ののち、小説の取材で熊本にやって来た三島を案内、接待する栄誉を得た福島は、そこでまたしても同じ過ちを繰り返す。
熊本の最初の夜、ホテルの三島の部屋でのシーン。
私は掌でねっちりと愛でるように、三島さんの上半身を撫でまわしながら、脳の奥で、ある願いの呪文をとなえているが、やはり、私の方は駄目のようだった。
半ばやけっぱちな気持で、私が抱きついてゆくと、三島さんは、急に体のむきをかえて抱きかえしてきて、小さな声でささやいた。
「しばらくぶりだったね、逢いたかったよ」
今でもそう言ってくれている安堵感と、一方欲望のかけらも伴わない房事の遂行に、私の頭は混乱しながらも、懸命に、三島さんの首から胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。中でも、筋肉の段もあらわなわき腹のあたりを、上から下へと流してゆく時など、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた。
ここでもまた、読む者は突っ込まねばなるまい。
「お前、なんでそこで三島と寝るんだ!?」
東京から熊本くんだりまでやって来た大作家三島由紀夫に対する人身御供さながらの接待のつもりか。
過去の無作法なふるまいに対する謝罪なり償いなりのつもりか。
自ら書いた原稿を本にして出版する伝手を三島に紹介してほしい下心から来る枕営業なのか。
それとも、カリスマ性ある天才の圧倒的オーラを前にしたら、抵抗する意志さえも萎えてしまうのか。
三島が、東京から遠く離れた地方のホテルの一室という密室で、やっと仮面を脱いでくつろぐのと相反するように、福島は「三島の愛人」という仮面を被る。
最初の20代の時はまあ仕方ない。相手は誰でもいいから、「とりあえず経験したい」ということもある。
だが、このときは福島も30歳を過ぎたいい大人である。なぜ正直に言わないのだろう?
「自分はあなたを作家として尊敬しているし好意も感じている。けれど、それは恋愛感情ではないし、性欲でもないのです」と。
同じことは別のシーンでも言える。
熊本を発つ前夜、夜の街に繰り出した三島と福島は、そこで福島の知り合いであり三島の熱烈なファンであるケンという名の陽気なゲイの男と合流する。他に誰も客のいないスナックのソファで、惹かれ合う三島とケンは熱烈なキスをかわし始める。
熊本を発つ前夜、夜の街に繰り出した三島と福島は、そこで福島の知り合いであり三島の熱烈なファンであるケンという名の陽気なゲイの男と合流する。他に誰も客のいないスナックのソファで、惹かれ合う三島とケンは熱烈なキスをかわし始める。
私は、三島さんが相好を崩して、「いいね、いいね、肥後の男は。気に入った。ぼく、これから、ケンちゃんとどこかに行こうかな」というのをききながら、心の中では、(もし、三島さんが、本当に望むのなら、そうなって欲しい。折角、熊本まで来たんだから)と思っていた。三島さんの最後の夜に、せめて「男の土産」をさしだしておきたかった。酔いながら、ケンにも、ぼくには心配いらないから、三島さんをどうにかしていいよと、こっそりと何度か言った筈である。
ところが、目の前に、これみよがしのキスが持続されるのをみていて、私の頭によぎった思いがある。このまま放置しておくのは、かえって三島さんに対して失礼ではないかと。
二人のキスを眺めているということは、三島さんへの愛情など全くない証明にもなる。それじゃ、また、私の手前としては、最悪の土産を持たせることになる。ここで、三島さんに焼餅をやかなければ、私の面子が立たないのではないかと思った。次の瞬間、私は長卓の下で脚をのばし、自分の靴で、思い切り強く三島さんの靴を踏んづけた。(ゴチック、ソルティ付す)
この不埒な行為により、三島は(福島の狙った通り)上機嫌になる。
そりゃそうだろう。「なんだかんだ言って、次郎は今もまだこんなに嫉妬するほど僕を愛してくれている」と、三島は勘違いしたのだ。
だから、熊本を発つ直前にホテルの部屋で荷造りを終えた三島は、服を脱ぎ棄て、白い鉢巻き、白いふんどし一丁になり、うっとりとした表情で日本刀をかざし、福島に言う。
「福島君、もし、いざということがおきたなら、君、東京へすぐ来てくれるかね」
福島は答える。
「はい、行きます! その時には、すぐに電話か電報下さい」
三島さんが、うむ!と強くうなずく顔が見えた。だが私は、少しの間をおいて、次のような台詞をつけ加えてしまった。
「行くのは行きます。しかし・・・・・・その、いざということが、どういう内容のいざなのか、はっきりわかってから行きます」
またしてもボタンの掛け違い。
自分への愛と思ったものは偽りだったのか? 三島は落胆を隠せない。
性愛シーンのみならず、こうした不可解な、相手を誤解させる福島の言動は本書のあちらこちらで目につく。
決裂したばかりの三島が日本を留守にした間をさも狙うかのように、三島の実家を訪れて寝泊まりし、三島の両親の世話になる。
ゲイセックスも含め三島との関係を題材にした自伝的小説を、地元の文芸誌に掲載する。編集者と三島との関係から、その雑誌が三島に送られてその目に触れることが当然見当つくはずであるにも関わらず。(福島は、その小説を目にしたことが、自決2年前の三島から笑顔がなくなった原因ではないかと憶測している)
お金がないからと言って、三島からの手紙を簡単に古本屋に売ってしまう。
このような福島の言動は、良く解釈すれば、「何を考えているのかよくわからない朴訥な男」、「世間知らずの不器用な男」と映ろう。三島はそこに魅力を感じたのであろう。が、悪く取るなら、「感謝を知らない恩知らずなヤツ」、「欲得ずくで人と付き合う卑しい男」、「自己中心的な調子のいい人間」と映るだろう。刊行時に本書が、三島を敬愛する人々から叩かれた原因の一端はそこにあるような気がする。読みようによっては、あたかも福島が、畏れ多くも、偉大な作家にしてスターたる三島を「もてあそんでいる」かのように読めるからだ。
思うに、福島の不可解な言動は、単純にゲイとして自己肯定できないでいるところに起因するだけではなしに、その複雑にして不遇な生い立ちに存するところ大なのではないか。
父親の分からぬ私生児として生まれ、すぐに大叔母(祖父の妹)に預けられた福島は、親の愛や家庭の団欒というものをまったく知らずに育った。福島の母親は青空賭博の元締めで、義父はヤクザの親分であった。福島の兄弟はみな父親が異なり、みな生まれたそばから母親に捨てられている。福島本人が書いているように、慢性の「家族酸素欠乏症」だったのである。立派な父母が揃っている三島家に対する憧れはそれゆえであった。
福島は、自分と三島の共通点として、「幼少の頃、実の母親ではなく、気の強い老女(三島の場合は祖母)の独占的庇護のもとに育てられたこと」を挙げ、その影響をこう指摘している。
父親の分からぬ私生児として生まれ、すぐに大叔母(祖父の妹)に預けられた福島は、親の愛や家庭の団欒というものをまったく知らずに育った。福島の母親は青空賭博の元締めで、義父はヤクザの親分であった。福島の兄弟はみな父親が異なり、みな生まれたそばから母親に捨てられている。福島本人が書いているように、慢性の「家族酸素欠乏症」だったのである。立派な父母が揃っている三島家に対する憧れはそれゆえであった。
福島は、自分と三島の共通点として、「幼少の頃、実の母親ではなく、気の強い老女(三島の場合は祖母)の独占的庇護のもとに育てられたこと」を挙げ、その影響をこう指摘している。
三島さんが11歳で実母のもとに還ってきた時は、大人も及ばぬ、人に気を遣う少年が出来上がっていたにちがいない。演技と本音が混然として、自分でも区別のつかないほど、手のこんだキャラクター。
同じことは福島自身にも言えるのではなかろうか。いや、三島を語りながら、福島は自分自身を語っているのではないか。愛でもなく義理でもなく礼儀でもない気遣い――「忖度」に追われる自身を。
福島と三島の一番の違いは、22歳まで自慰を知らなかったことに表れているように、若い時分の福島が自己に対する洞察と分析がほとんどできなかったのに比べ、一方の三島は、出世作となった『仮面の告白』に見られるように一流の精神分析医もかくやと思われるほどの緻密な自己分析と深い洞察力を持し、しかもそれを的確で詩的な文章で表現し得たという点であろう。
天才といわれるゆえんである。
評価: ★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損