1010年(寛弘7年)頃原典完成
1984年小学館「日本の古典」シリーズ

清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどく足りない点がたくさんあります。このように人より特別に優れようと思い、またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものです・・・・(中野幸一訳)

 これは、日本の古典文学愛好家なら誰でも知っている紫式部による清少納言評、というか悪口である。その出典が『紫式部日記』である。
 紫式部という人は、十分すぎるほどの漢学(中国古典)の素養がありながらも、人前では「一」という漢字さえ書けないフリをしていた遠慮深い控えめな女性であった。が、心の中にはずいぶん辛辣なものを持っていたようだ。まあ、そうでなければ、あの人情の機微の襞々までえぐった傑作『源氏物語』は書けなかったであろう。

 清少納言は勝気で陽性で社交的。紫式部は引っ込み思案で陰性で厭世的。
 正反対の性格を持つ二人は、同じ一条天皇の后である定子皇后、彰子中宮にそれぞれの女房として仕えた。ちなみに、定子の父藤原道隆と、彰子の父藤原道長は実の兄弟である。

 『枕草子』を読めば、定子皇后サロンの華やかさと、主として貴公子相手に発揮された清少納言の才気煥発は明らかである。宮廷中の話題になるエピソードもたびたびあった。
 それにくらべると、彰子中宮サロンは地味で近寄りがたいものがあったようだ。紫式部はもとより和泉式部や赤染衛門など、当代きっての美女・才女を父である道長の権力に任せて集めたものの、どうも今一つパッとしなかった様子である。
 そんな妬みもあって冒頭の清少納言評につながったのではないか、清少納言の鼻高々な活躍ぶりと才女の誉れが伝わってくるのを陰気な彰子サロンの奥にくすぶっていた紫式部は日頃苦々しく思っていたのではないか、二人がたまたま宮中の渡り廊下ですれ違うようなことがあったとき清少納言の傲岸な鹿十(しかと)を紫式部ははらわた煮えくりかえる思いで受け止めていたのではないか、などと勝手に想像して楽しんでいた。
 が、残念なことにそれは違っていた。
 同時代に生きていたとはいえ、二人は宮中で出会ってはいないのである。


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シカトの語源は花札の「十月の鹿」が
そっぽを向いているところにある


 清少納言(966頃―1025頃)が定子の女房として宮仕えをしていたのは、993年頃から定子が亡くなった1000年頃までのおよそ7年間。清少納言が28~35歳のときである。
 一方、紫式部(973頃-1014頃)が彰子に仕えていたのは、1006年頃から1012年頃までのおよそ6年間。式部が34~40歳のときである。
 二人の宮仕えの時期はまったくズレている。すでに引退し里住みしていたであろう清少納言は、『源氏物語』筆者としての紫式部の高名を風の便りとしてしか聞かなかったであろうし、紫式部が宮仕えを始めたときには定子サロンの評判はすでに過去のものであった。

 となると、紫式部はどうやって清少納言の人となりを知ったのだろう? それも、ここまで悪しざまに言えるくらいの、まるで目の前に本人を見ているかのような調子で。
 
 一つにはむろん、『枕草子』を読んでの感想であろう。ベストセラー『枕草子』は当然書写されて貴族社会に出回っていたはずである。名だたる貴公子たちと顔を隠すことなく付き合って、ジョークを交わし、知識をひけらかす清少納言の姿は、紫式部の美意識あるいは劣等感をいたく刺激するものであっただろう。
 それと、紫式部が宮仕えする前から、定子サロンの評判と清少納言の噂は貴族社会に広まっていたであろうから、里(実家)にいた彼女はそれを耳にしていたであろうし、有名僧侶の読経会や祭りなど大々的なイベントに出かけた折には、仲間の女房達と浮かれ騒いでいる清少納言の得意満面な様子を牛車の中から眺めた機会もあったかもしれない。

 この日記を執筆時にはすでに、『光源氏の物語』の書き手として宮中で評判を高めつつあった紫式部にとって、『枕草子』ですでに名を成している清少納言は、ライバルサロンの女房だったということは別にしても、彼女自身のアイデンティティを否定するような気にかかる存在であったのは想像に難くない。



評価: ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損