1965年大映
93分
貧しい家計を扶けるために裕福な呉服屋の爺さんの妾にさせられたお兼(=若尾文子)は、絶望と孤独のうちに生きている。幸い爺さんが急死し、多額の遺産をもらい母親と故郷に帰るも、周囲の目は冷たく村八分が続く。
そこへ村の模範青年である清作(=田村高廣)が手柄を立て除隊され帰ってきた。前途洋々の清作は村じゅう総出で歓迎される。
母親が病死すると、お兼は親戚で精神薄弱の兵助(=小沢昭一)を引き取り、無為な日々を送る。
いつしか清作とお兼は惹かれ合うようになり、周囲の反対を押し切って結婚する。ようやく孤独が癒され、生まれて初めての幸福に酔いしれるお兼。
しかし、日露戦争が勃発し、清作は戦地に赴く。あとに残されたお兼は陰にひなたに村民から侮蔑を受けつつ、苦しみの日々を送る。男たちからは貪婪と好奇の目で見られ、女たちからは嫉妬と蔑みの目で見られ、身の置き所がない。
名誉の負傷で村に一時帰還した清作との束の間の逢瀬。互いの体をむさぼる二人。
ふたたび清作が戦地に戻ろうとする祝いの席で、お兼は手にした五寸釘で清作の両目をつぶす。
なんとも陰惨で暗い映画である。
愛する男を戦地に行かせないためにその体を傷つけるエゴイスティックで衝動的で残虐な振舞いは、阿部定を思わせる。明らかに、お定同様、本編のお兼もまた、情の強い、自らの感情を抑えられない、気狂いである。
若尾文子は、持ち前の勘の良さと凄まじい演技力とで、お兼を見事に肉体化している。とくに後半はアクション映画と言ってもいいくらいに走り回るシーンがあるのだが、まったく無駄のない、しかし激情あふれる迫力の演技を見せ、一瞬も目が離せない。
「静」は退廃的な美しさ、「動」は手負いの狐のような命ぎりぎりの激しさ、「静」から「動」への変幻も自在。やはり途方もない女優である。
愛する男を戦地に行かせないためにその体を傷つけるエゴイスティックで衝動的で残虐な振舞いは、阿部定を思わせる。明らかに、お定同様、本編のお兼もまた、情の強い、自らの感情を抑えられない、気狂いである。
若尾文子は、持ち前の勘の良さと凄まじい演技力とで、お兼を見事に肉体化している。とくに後半はアクション映画と言ってもいいくらいに走り回るシーンがあるのだが、まったく無駄のない、しかし激情あふれる迫力の演技を見せ、一瞬も目が離せない。
「静」は退廃的な美しさ、「動」は手負いの狐のような命ぎりぎりの激しさ、「静」から「動」への変幻も自在。やはり途方もない女優である。
最後まで観て気づいたのだが、この映画を陰惨で暗いものにしているのは、お兼の狂気や不幸ではなかった。
挙国一致の戦時下のファッショ、日本の村社会の閉鎖性と陰湿ないじめ、女性蔑視と裏腹のマッチョイズム(男権主義)、「個」たることを許さない集団圧力(ピアプレッシャー)――こうしたものこそが、観ていて気持ちが悪くなる要因であった。
挙国一致の戦時下のファッショ、日本の村社会の閉鎖性と陰湿ないじめ、女性蔑視と裏腹のマッチョイズム(男権主義)、「個」たることを許さない集団圧力(ピアプレッシャー)――こうしたものこそが、観ていて気持ちが悪くなる要因であった。
一人の女の狂気に近い愛を描きながらも、この作品の隠れた主要テーマは「個」対「社会」にあるのではないか。
清作は刑を終えたお兼を兵助とともに迎え、お兼を許す。「盲になり周囲からつまはじきにされる身となって、やっとお前の気持ちがわかった」と言って・・・。
妾で前科者のお兼、盲目で兵隊失格の烙印を負った清作、生まれつき精神薄弱な兵助。社会から馬鹿にされ後ろ指さされる三者が身を寄せ合い、村はずれのあばら家で狭い畑を耕して暮らすラストに、狂った社会から脱出し「個」として生きるためには狂った個人になるほかない、という逆説を読みとった。
清作は刑を終えたお兼を兵助とともに迎え、お兼を許す。「盲になり周囲からつまはじきにされる身となって、やっとお前の気持ちがわかった」と言って・・・。
妾で前科者のお兼、盲目で兵隊失格の烙印を負った清作、生まれつき精神薄弱な兵助。社会から馬鹿にされ後ろ指さされる三者が身を寄せ合い、村はずれのあばら家で狭い畑を耕して暮らすラストに、狂った社会から脱出し「個」として生きるためには狂った個人になるほかない、という逆説を読みとった。
評価:★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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