1958年大映
99分
原作 三島由紀夫『金閣寺』
脚本 和田夏十、長谷部慶治
撮影 宮川一夫
音楽 黛敏郎
原作 三島由紀夫『金閣寺』
脚本 和田夏十、長谷部慶治
撮影 宮川一夫
音楽 黛敏郎
映画化に際して当の金閣寺からクレームが入り、金閣寺という名が使えず、驟閣寺(しゅうかくじ)と変更している。タイトルも『炎上』となった。
原作では、寺に火をつけた主人公の青年が裏山に上り「生きよう」と独語するところで終わるのだが、この映画では自殺に失敗し警察に捕まって尋問を受け、その後列車から飛び降り自殺するラストになっている。後者が事実に即しているらしい。
また、原作の「美に対する執着と憎悪」といった抽象的で映像化しづらい放火動機が、「どもりに対する劣等感と世の腐敗に対する憤り」といったあたりに変更されている。まあ、こちらのほうが多くは芸術家でない観る者にしてみれば、わかりやすく、納得しやすい。
それ以外は、ほぼ原作どおりと言ってよい。
主人公のどもりの青年溝口を演じる市川雷蔵が、これ以上にない適役ぶりを発揮している。同じ市川監督の『破戒』でも見せたが、暗い影ある孤独な青年をやらせたら他の追随を許さない。原作者の三島も市川監督も、この雷蔵の演技を手放しで褒めたらしいが、それも納得である。
また、驟閣寺住職を演じる二代目中村鴈治郎と、溝口の友人で足に障害を持つ戸刈を演じる仲代達矢も存在感たっぷりで、画面を引き締めている。金壺眼の仲代達矢の眼力は、モノクロ映画だと一層映える。
50代のソルティは、三島の原作を読んでも、市川によるこの映画を観ても、いまひとつ金閣寺放火の動機が理解しきれない。主人公の溝口に好意を持てないのはむろん、共感も難しい。そのためか、この映画も鬱陶しいだけの印象に終始した。
現実の放火犯であった林養賢は、精神鑑定により統合失調症と診断されたらしい。常人とは異なる、常人には見当のつかない、精神障害者特有の思考回路(論理)が働いていたと考えた方が、すんなりとは来る。
あるいは、ソルティが青年期の危機から遠く離れて、若い頃抱えていた性的欲求不満と連動した物狂おしさや、「何者か」に成らなければならない焦燥感や、ひりひりする孤独感を体感として忘れてしまったせいなのかもしれない。
そんな体感を慰めるべく、しばしば京都に旅し、寺巡りしたことは覚えているのだが・・・。
金閣寺は臨済宗。なんとなく意外。
評価:★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損