2018年新潮文庫

 『「子供を殺してください」という親たち』で一気に注目を浴びた押川剛による第二弾。

 先日、元トップ官僚による40代の引きこもりの息子殺しがあった。8050問題という言葉の広がりとともに、今や中高年の引きこもりは早急に対策を講じなければならない社会問題となった感がある。一千人を超える引きこもりの精神障害者を「対話と説得によって」医療につなげる民間移送サービスを行っている押川の発言力は、いや増すばかりだ。

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 「ドキュメント」と題する本書第一章では、押川が直接関わって精神科入院につなげた6人の事例が紹介されている。
 前作同様、父母・兄弟姉妹はもちろん、保健師や精神科医やケースワーカーなどの専門家でもうかつに近寄れない引きこもり当事者の危機的状況、凄まじい家庭現場の描写に慄然とする。と同時に、「なんでこうなるまで放っておいたんだ! なんでもっと早く手を打たなかったんだ!」と、親たちのあまりの鈍感さ、認識不足、現実逃避ぶりに脱力する。
 もはや押川は言いよどむことすらしない。引きこもりの一番の原因は、本人ではなくて親にある。親の価値観や生き方に問題の根っこがある。

 第三章で、押川は自身が出会ってきた沢山のケースを総括し、「なぜ家族は壊れるのか」を解説している。そこでキーワードとして提出されているのが、総強迫性社会という言葉である。これは、「〇〇でなければならない」という見栄やとりつくろいが強迫観念のごとくはびこっている現代社会のことである。

子供の心を壊してまで、「〇〇でなければならない」に執着する親には、共通する要素があります。実は、親自身が人生において無理をしているのです。たとえば、相当な背伸びをして社会的地位を手に入れていたり、極端に人の評価を気にしていたり、返しきれないほどの借金を抱えてマイホームを購入していたりします。夫婦関係が良くないのを、無理やりに取りつくろっているような例もあります。

 総強迫性社会において「〇〇でなければならない」と思い込み、その価値観を骨の髄まで身につけた親は、曲がりなりにも成功した暁に、今度は自らの子供に同じ価値観を押し付ける。核家族化、都市化、個人主義による閉鎖的な家庭環境で育つ現代の子供たちは、それ以外の価値観に触れることもないまま、親の価値観を相対化することなしに取り入れ、「〇〇でならなければならない、そうでなければ愛されない」と思い込む。それが、長じて何らかの挫折にぶち当たってうまくいかないことが露わになったとき、立ち直るすべなく、引きこもりへの道をたどる。
 劣等感と自己否定に苛まれ、挫折した自分、ケチのついた人生を受け入れることができずに鬱屈する。もはや同居している親の存在は失敗を責め立てるうっとうしいだけの抑圧装置にほかならず、一緒にいることは本人にとってマイナスでしかない。が、そこから脱出する勇気もない。
 また、早いうちから子供に個室をあたえることができ、働かない子供の一人くらいは養っていける裕福な家庭にあっては、そもそも引きこもりを可能にする条件が揃っている。親の側にも、働かずに昼日中からブラブラしている子供の姿をご近所に見せたくないというのもどこかにあるかもしれない。
 
 引きこもった子供に対して親はどうしたらよいのか分からない。それは自らの価値観と相反する現象である。「〇〇でなければならない」という思いを抱いたまま引きこもりの子供に接しても、うまく対話できるべくもない。かと言って、下手に家から追い出して、他害行為を起こされても困る。世間体もよろしくない。
 かくして、引きこもりは長引き、病膏肓に入る。

雪玉

 
 「総強迫性社会」と対峙する概念として、押川は等身大の自分というキーワードを上げている。
   
私が携わってきた若者たちのうち、うまく自立ができた例を振り返ってみると、「等身大の自分」を知り、受け入れられたことが、とても大きかったのではないかと思います。この過程においては、自分史だけでなく両親の歴史も振り返り、自分を育てたカルチャーやファミリーヒストリーを理解する、といったことを行ってきました。
 カルチャーやファミリーヒストリーを理解すると、それにより身についてしまった「認知のゆがみ」や「思考パターンの癖」を自覚できるようになります。自分はどんな思考パターンのときに失敗(あるいは成功)するのかを自覚すれば、危機的状況に巻き込まれないよう自己コントロールできるようになり、自ずと生きていく場所も定まります。
 
 「生きていく場所」は親のそばとは限らない。むしろ、親の価値観を変えることが難しいのであれば、親とは距離を置くほうが望ましいであろう。 

親子間が殺し合いになるくらいなら、あるいは心が壊れてしまうくらいなら、親が子を捨てる、子が親を捨てる、そういう選択があってもいいと思います。

 「親子は仲良くしなければならない」、「何があっても親は子の面倒を見て責任を取らなければならない」、「子は老いた親の世話をしなければならない」というのも一つの強迫観念なのであろう。


サルの家族
 

 「現場からの提言」と題する最終章では、押川の考える処方箋=「危機介入に特化したスペシャリスト集団の設立」が述べられている。これは前著でも触れられていた。今回は、昨今の福祉政策などの現状分析をもとに提言の根拠をより明らかにし、より包括的な見地から語られている。
 ここ数十年の福祉政策は全般として「施設から地域へ」という流れにある。精神障害者のみならず、身体障害者も要介護高齢者も要保護児童なんかもそう。いわゆる地域福祉(コミュニティケア)である。顔の見える社会的つながりこそが福祉の原点という意味でそれは正しいし、予算的理由からも建設・運営に金のかかる施設(病院や介護施設など)などでのケアは抑えられていくのは仕方ない。
 が、問題点もある。 

今のところ、医療機関での治療が受けられ、地域移行・アウトリーチのレールに乗れるのは、「優秀」な患者、すなわち専門家にとって「扱いやすい」患者に限られています。そこからこぼれ落ちた患者たちは、「社会的入院」や「長期入院」こそ免れるかもしれませんが、未治療や受療中断による事件化、そして司法化という「社会的制裁」を受けることになります。この現実に、私は憤りと虚しさを覚えます。

 これはよく理解できる。
 介護施設で働いていた時、まさに重度の認知症や精神障害のある高齢者ほど施設は受け入れたがらないものであることを実感した。というより、現場で働いている自分たち介護職こそがそうした困難事例をあからさま煙たがった。クレーマー家族がいる高齢者も然りである。
 仕事がしんどくなるというのも理由として大きいが、そればかりでなく、一人でもそういう対応困難なケースがあると、他の入居者の安楽な生活を保障することが難しくなるという点もある。
 公共スペースで一日中わけのわからないことを大声で叫び続けている高齢者の姿を想像してみてほしい。認知症の人は感情伝播しやすいので、次から次へと不穏が広がり、やがてフロア全体がカオスとなる。「薬(精神安定剤)でも盛るしかない」とつい思いたくなるではないか。
 一方で、「患者や障害者の人権を守ろう」という掛け声は普遍化しているので、隔離や器具等による身体抑制や投薬による精神抑制はそう簡単には行えない。なら、初めから受け入れないに限る。
 病院の場合、ある一定期間が過ぎれば医療保険の点数が下がるので、患者を長く置いてもおけない。幸いなことに、お上は「施設から地域へ」と謳っている。
 かくして、重篤な精神障害者のような対応困難な人ほど地域に戻されていく。
 ここにはダブルバインドがある。
 
 官僚や学者などの有識者のつくる「きれいごと」では済まされない現実がある。
 ここ最近の引きこもり関連の事件は、その現実からは当の官僚や有識者ももはや目をつぶっていることができないはずと訴えているように思われる。
 いや、総強迫性社会の勝者である彼等の家庭にこそ、まさに当事者が生まれやすい素地があると言うべきか。



評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損