1957年大映
118分カラー
原作 紫式部
脚本 北條秀司
出演:長谷川一夫(薫)、山本富士子(浮舟)、乙羽信子(中君)、市川雷蔵(匂宮)
『地獄門』でカンヌグランプリに輝いた衣笠貞之助の描く源氏物語・宇治十帖である。
宇治十帖は、光源氏の子供(実の父親は柏木)である薫と、孫である匂宮とが、宇治に隠れ住む三人の美女(大君・中君・浮舟)をめぐって恋のさや当てする物語。
とくに、その名の通り状況に流されやすい浮舟が、二人の貴公子のどちらのものになるかが焦点である。
この映画のあらすじを身もふたもなしに言ってしまうと、浮舟の処女をめぐって薫と匂宮が争う話である。
王朝絵巻を撮らせたら衣笠監督の右に出る者はおるまい。
絢爛豪華、格調高雅、色彩鮮やかなる平安貴族の暮らしぶりが、建物(寝殿造)から、調度から、着物から、牛車から、髪型から、化粧から、見事に再現されて目を楽しませる。
女たちのお歯黒は考証の確からしさを示す。
美男美女の大スター競演も贅沢そのもの。
長谷川一夫と市川雷蔵の美男対決はどちらに軍配を上げたものやら。
役の上では、野暮なほど誠実な薫を演じる長谷川が、好色で軽薄な匂宮を演じる市川雷蔵より好人物に描かれている。
これは明らかに役者としての格の違い、芸歴の違い、人気の違い。
この映画の主役は、雷蔵でも山本富士子でもなく、長谷川一夫である。
むろん、長谷川は容姿だけでなく演技も達者。
恋に躊躇する自己抑制の強い男を見事に造形化している。
雷蔵は、十八番である『眠狂四郎』同様、ここでもスケコマシを演じている。
浮舟(=山本富士子)の処女を虎視眈々と狙うボンボン皇子。
気に入った女があれば、人妻だろうが親友の女であろうがいっさい気にかけず、強引に口説く。夜這う。
妻を寝取られた男からの復讐の剣に、腰を抜かさんばかりに逃げる柔弱ぶりは、円月殺法の狂四郎とは真逆でおかしい。
ただ、ソルティはこの二人の役を入れ替えたほうが、より深みが増したろうと思った。
つまり、薫=雷蔵こそ適役だったと思う。
薫は、亡き光源氏の息子として周囲にかしずかれているが、実は源氏の妻・女三宮が源氏の親友の息子(柏木)と密通してできた子なのである。
薫は不義の子なのだ。
その出自の悩みが、薫を性愛に対して及び腰にさせる一因となった。
であるから、出自についてコンプレックスを抱いていた雷蔵こそ、薫にふさわしかった。
天下の二枚目として生涯女性ファンを魅了し続けた長谷川こそ、匂宮にふさわしかった。
(長谷川にもっとふさわしいのは光源氏そのものだが・・・)
と言っても、それはミスキャストといったものではない。
雷蔵も長谷川も山本も音羽も、衣笠監督の的確な演出に見事にこたえ、紫式部の原作を焦点を絞ってわかりやすく改変した脚本も冴えて、非の打ちどころのない映画に仕上がっている。
原作では、浮舟は薫とも匂宮とも床を共にし、そのうえで二人の間で気持ち引き裂かれ、入水自殺したあげく、僧侶に助けられて出家する。
本作では、浮舟は相思相愛の薫に抱いてもらうことのないまま、匂宮に無理やり処女を奪われて、絶望した薫から非難され、入水自殺を遂げる(助かったエピソードは描かれない)。
おそらく、原作の書かれた平安時代よりも、この映画の公開された昭和時代の方が、女の操(=処女信仰)に対する日本社会や男たちの固執は強かったであろう。
本作では、浮舟は相思相愛の薫に抱いてもらうことのないまま、匂宮に無理やり処女を奪われて、絶望した薫から非難され、入水自殺を遂げる(助かったエピソードは描かれない)。
おそらく、原作の書かれた平安時代よりも、この映画の公開された昭和時代の方が、女の操(=処女信仰)に対する日本社会や男たちの固執は強かったであろう。
評価:★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損