1991年潮出版社初出
2000年潮漫画文庫

 若い頃、「男ってのは歳を取ると歴史戦記物にかぶれるらしい」と知って、自分だけはそんなことあるまいと思っていたが、ふと魔が差して踏み込んでしまった。
 手始めは漫画から。
 横山光輝の中国物だけに限っても、本作のほかに『三国志』、『水滸伝』、『史記』、『殷周伝説』がある。
 手つかずの宝の山。
 読書好き漫画好きにとって、老後の孤独、恐るるべからず。
 せいぜい目を大切にしよう!

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 高校時代に漢文の授業で習った『史記』の中に、項羽と劉邦の話はあった。
 読んだのは、ことわざになった有名な故事「四面楚歌」から自刃にいたる項羽最後の場面であった。
 漢文の先生は、当時の中国の情勢や、項羽と劉邦の出会いから対立まで、そして闘いの顛末を面白おかしく教えてくれた。
 ほとんど忘れてしまったのだが、高校生のソルティが項羽の方に好感を抱いたことは覚えている。

 直情径行(この言葉を知ったのがまさにこの授業においてだった)で血気盛んで子供のように単純な項羽にくらべると、智者を周りに集め卑劣な策を弄する劉邦は老獪な大人のように感じた。(実際、劉邦の方がかなり年長だったらしいが)
 高校生にとって、項羽のほうが身近に感じたのである。
 しかも、世界の歴史上のフィクション・ノンフィクション(史実)問わず、もっとも人間的でもっとも感動的な最期である。

 力は山を抜き 気は世を蓋う
 時利あらずして、騅(すい)逝かず
 騅の逝かざるをいかにすべき
 虞(ぐ)や、虞や、なんじをいかんせん

 
 教科書にあるこの一節を解説する先生の感情の高ぶった声が耳に残っている。

 
ひなげし 
ひなげしを虞美人草と呼ぶ由来は
項羽の愛妻・虞の墓にこの花が咲いたことによる

 
 高校の授業でその男の話が出なかったのか、それとも先生は話したけれどソルティの頭に残らなかったのか。
 今回この漫画を読んでもっとも魅力的な人物と映ったのは、劉邦方の大元帥を務め、項羽を打ち破り、劉邦を中国の統一者に導く最大の功労者となった韓信であった。
 こんな男がいたのか・・・!
 
 この漫画を読む限りにおいてだが、項羽と劉邦の闘いは、実体としては項羽と韓信の闘いなのである。
 知略・奇策をめぐらし項羽をたびたび罠にかけ苦境に陥れた張本人は、韓信であった。
 この韓信はもともと項羽側の一兵卒であった。
 項羽に然るべく用いられないのに失望し、敵方の劉邦に走ったのである。
 項羽の敗北の最大の要因は、この韓信の真価を見抜けずに、韓信を手放したことにあった。
 
 韓信を語るのに「股夫(こふ)」という言葉が使われる。
 文字通り、「ほかの男の股の間をくぐった夫(おとこ)」という意味である。
 若い頃韓信は、街中でならず者に臆病者とののしられ、「その剣で俺を刺して見ろ。さもなくば、俺の股をくぐれ」と言われ、黙って相手の股をくぐった。
 このエピソードが広まって、あとあとまで韓信には「臆病で女々しいヤツ」という悪評がついて回った。
 項羽が韓信の真価を見抜けず、劉邦も(配下の智者たちに説き伏せられるまでは)韓信を軽侮していた理由は、そこにあった。
 
 普通の男なら、いわんや武士なら、他の男に挑発され馬鹿にされたら、カッとなって喧嘩するであろう。
 相手の意のままになって、民衆の見守る中、地面に這いつくばって股の下をくぐるなんて、意地もプライドもないも同然、「男」という看板を捨てたようなものである。
 しかし、韓信はやった。 
 
「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。(ウィキ『韓信』より抜粋)

 このときすでに大望を抱いていたに違いない。
 目先のつまらない相手と喧嘩などしても無益と心得ていたのである。
 しかし、実際に大の男が、そう簡単に他の男の股くぐりができるかと言えば、そう簡単ではあるまい。
 
 この漫画を読むと、韓信という男が、常識や固定観念や面子にこだわらない人間であることが伝わってくる。
 だからこそ、普通の男が考えられないような奇抜な作戦を思いつき、相手の裏をかき、度肝を抜くことができたのだ。
 「男ならやらない、武士ならできないことがある」という、戦国時代に敵味方問わず浸透していた暗黙の了解を、韓信は平気で叩き壊していった。
 いわば、「男らしさ」という共同幻想を空洞化させたのである。
 
 ソルティにとって、韓信の魅力はそこに集約される。
 横山光輝の描く韓信がまた、底知れない魅力を放っている。

 軍師としての韓信の名声が天下にとどろき、敵の項羽や主君の劉邦とも肩を並べるほどの力量を得たとき、「独立君主となって天下を三分し、その後で天下を狙っては?」と献策する者があった。
 しかし、韓信は自分を引き立ててくれた劉邦に恩義を感じ、その策を退けた。
 この逡巡があだとなった。
 天下統一して晴れて漢の高祖におさまった劉邦は、韓信を恐れ、その地位や権力を奪う。
 造反を試みた韓信は、劉邦の家臣に殺されてしまう。
 すでに機を逸していたのである。

 他の男の股をくぐることはできても、くぐらせることはできない奴なのである。 

 


評価:★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損