2019年医学書院

 好著の多い「ケアをひらく」シリーズの一冊。
 今回は精神障害者のデイケア(精神科デイケア)が舞台となる。

 著者の東畑開人は1983年生まれの臨床心理士。
 大学院卒業後、カウンセリング(セラピー)がやりたくて就活した結果、沖縄のデイケアでカウンセラーとして採用された。 

「精神医療の現場で自分を鍛える。そして、大セラピストになって凱旋する。」
 そういう英雄的ファンタジーに取り憑かれていたのだ。

 しかし、その実態はデイケア10割で、朝から夕方まで10時間デイで過ごして、その合間にカウンセリングするというものだった。
 東畑は、はじめて接する精神科デイケアの現実にカルチャーショックを受ける。
 本書は4年間のデイケア体験について記したものである。

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 ソルティは精神障害者のデイケアには行ったことない。
 高齢者のデイサービスやデイケアならある。そこでは自宅から通ってくる高齢者に対し、介護や簡単な医療ケア、リハビリやレクリエーションを提供する。高齢者の幼稚園という表現は当たらずと言えども遠からず。言うまでもなく、これは介護保険制度の中のサービスである。
 また、身体&知的障害者の生活介護(デイケア)にも行ったことがある。そこでは自宅から通ってくる身体&知的障害者に対し、介護や生活に関する相談および助言、機能訓練や創作的活動・生産活動の機会を提供する。知的障害者にはダウン症と自閉症の人が多かった。これは障害者総合支援制度の中のサービスである。
 東畑の勤めることになったデイケアは、精神科クリニックの外来治療の一つとして開設されたもので、慢性期の統合失調症の人が最も多く、それ以外に躁鬱病、発達障害、パーソナリティ障害などの人がいたようだ。原則医療保険の対象となる。
 同じデイケアでも、対象者や予算の根拠となっている制度の違いによって、ずいぶんと雰囲気が異なる。
 
 精神科デイケアとはどんなところか?
 国の定義によれば、
 
精神疾患を有するものの社会生活機能の回復を目的として個々の患者に応じたプログラムに従ってグループごとに治療するもの

 東畑は着任早々、この定義が理想(建前)であることを身をもって知ることになる。
 精神障害者の「居場所づくり」というのが実質だったのである。
 
 そう、デイケアで過ごす10時間のうちのかなり多くが自由時間なのだ。
 それは何かを「する」のではなく、「いる」時間だ。座って「いる」。とにかくそこに「いる」。ただ、いる、だけ。何も起こらなくて、動きがない静かな時間だ。
 デイケアとは、とにもかくにも、「いる」場所なのだ。
 
 彼ら(ソルティ注:デイケアの利用者)は社会に「いる」のが難しい人たちなのだ。だから、僕の仕事は「いる」のが難しい人と、一緒に「いる」ことだった。
 
 ふしぎの国のデイケアは、入り口の門から最奥の地まで、「ただ、いる、だけ」に敷きつめられている。
 デイケアの門をくぐったその瞬間から、僕は「ただ、いる、だけ」に困惑していた。

 「いる」の反対は何か?
 「いない」ではない。「する」である。Be ではなく Do である。あるいは、「なる(Become)」である。
 そもそも東畑は、カウンセリングという名のセラピー(施療)がやりたくて入職したのであり、学究生活で学んだ様々な技法を駆使したセラピーを施行し(する)、その結果としてデイケア利用者(患者)が良くなることを期待してきたのであった。
 それが蓋を開けてみたら、朝から夕方までデイケアにずっぷり関わり、進歩も成長もない凪のような「終わりなき日常」に首まで漬かってしまう。
 
 しかしそこで、「こんなの、自分が求めていた仕事じゃない!」とさっさと踵を返して本州に戻るようなタマでないところが、東畑の素晴らしいところ。
 カルチャーショックが治まったあとは、送迎車の運転からバレーボールの審判まで、都度求められる雑多な仕事をこなしながら、デイケアとその住人たちを(利用者のみならずスタッフも)観察し、ケアとは何ぞやと考察し、セラピーとの違いについて分析する。
 本書の中心テーマの一つは、ケアとセラピーの違いである。
 
 ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。
 
 セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。


植物の芽


 東畑は、「いる」ことの辛さ、困難についてたびたび言及している。それは大ざっぱに言って、二つの理由に分けられるように思う。心理的理由と社会的理由である。
 
 心理的理由とは、我々現代人が(あるいは人類が?)「いる」ことに慣れていないところから来る。
 何もしないで「ただ、いる」ことは退屈である。どうしても何かをしてしまう。スマホをいじったり、本を開いたり、テレビをつけたり、人と話したり、身体を動かしたり、眠ったり、妄想したり、マスかいたり・・・。なにかを「する」。
 そしてまた、何もしないで時間を過ごすことに、あるいは漫然と同じような日々を繰り返すことに、罪悪感や焦燥感を抱きがちである。「もっと有意義に時間を使わなければ」とつい思ってしまう。なにか生産的なこと、自らの欲望実現や成長につながるようなこと、生活に彩りをもたらし人生を価値あるものにすることをしたくなってしまう。「なる」を求めてしまう。
 
 僕らが生きているこの社会では「変わる」ことがとても大事なこととされている。
 「PDCAサイクル」なんていう言葉もあるけれど、目標を決めて、挑戦して、うまくいったかどうかをチェックして、そして改善する。そうやって、目標を達成する、成長する、変わっていく、そういうことが良しとされている。それが僕らの社会の倫理だ。

 先進国、資本主義社会ではとくにその傾向が強い。
 我々はこうした「行動強迫」「成長幻想」を多かれ少なかれ内面化してしまっている。
 「いる」でなくて「する」、「そのまま」でなくて「変わる(成る)」。
 であればこそ、「日常を支える」を目的とするケアの仕事よりも、「変わる、成長する」を目的とするセラピーの仕事の方が社会的評価が高く、予算もつきやすく、給与も高い。また、ケアに与える定義も、ただ単に「居場所づくり」とするよりは、「社会生活機能の回復」、「グループごとに治療する」ほうが通りがいい。
 
 次に、社会的理由とは、上記と関連することだが、そのような「いる」を目的とするデイケアの仕事にも、少なくない予算がついていることに対するアンビバレントな思いである。
 
だけど、「ただ、いる、だけ」に毎日一人当たり一万円近い社会保障財源が投入されており、それを支えることで自分に給料が支払われているという事実に向き合ったときに、僕らは居心地が悪くなる。会計の声は僕らを居心地悪くさせる。

 ここで問われているのはケアの仕事の生産性である。社会的にアウトプットを生まない(ように見える)活動に従事して血税から給料を得ていること(タダ飯ぐらい)に対する東畑の抱くうしろめたさである。(気持ちは分かるが、ここは「僕ら」とすべきではない。「僕」と単数形にすべきだ。ケアの仕事に誇りを持ち、堂々と報酬をもらっている人に対して礼を失する)
 ことは「タダ飯ぐらい」ですまなかった。さらに輪をかけて、東畑を追い詰める残酷な現実があった。ブラックデイケア問題である。
 
「いる」の本質的価値が見失われているのに、ただ「お金になるから」という倒錯した理由で「いる」が求められる。そのとき、「いる」は金銭を得るための手段へと変わる。

 東畑は新聞沙汰にもなったブラックデイケアの事例を挙げている。患者を囲い込み、過剰なあるいは不必要な治療を施すことで利益を挙げる悪徳クリニックの例である。そこでは患者(デイケア利用者)は病院経営のための道具とみなされる。
 
精神科病院は過去にアサイラムだった。そこでは苛烈な管理がなされ、人権が侵害された。そのことが批判されたことで、患者さんの退院が奨励され、地域で生きていくことが目指された。だけど、地域で生きるのはつらい。そのときに避難所として出現したのがデイケアだった。デイケアは地域で生きる患者さんたちの居場所になり、アジールとなった。だけど、それがふたたびアサイラムに頽落してしまうことがある。それがブラックデイケアだ。

 アジールとは「避難所」のこと、アサイラムとは刑務所や収容所のような「全制的施設」のことである。
 
 東畑は、デイケアで働くうちに上記のような心理的理由および社会的理由に直面し、それをどうにかやり過ごしてきたが、4年経ったところで限界に達した。退職したのである。
 本書ではその後の動向は記されていないが、巻末のプロフィールによると、2017年より白金高輪カウンセリングルームを開設している。つまり、念願であるセラピーの仕事に就いたのだ。
 良かったね!

 東畑は遠回りしたのだろうか?
 
 本書には今一つの隠れたテーマがあると、ソルティは思った。
 それは、若くもあり当事者でもある東畑には見えないものかもしれない。
 が、おそらく、「ケアをひらく」シリーズの企画者にして編集者であり、東畑より年長の白石正明には、企画の当初から期するものあったのではなかろうか。
 この本は一人の青年のビルディングストーリー(成長物語)として面白いのである。冒険ファンタジーで、主人公の少年が道中出会ったユニークな仲間たちとともに様々な困難にぶち当たり、それを知恵と勇気と友情で乗り越え、世界の真実を知って大人になっていく。それと同種の爽やかな感動を本書から受けた。それこそ、英雄的ファンタジーそのものである。
 
 東畑は、「いる」の世界から、「する」「なる」の世界に転身したわけであるが、「いる」と向き合った4年間は決して無駄にはならないと思う。(すでにこの本を書けたことを除いても)
 人間はつまるところ、「いる」の状態(赤ん坊)から始まって、「いる」の状態(寝たきり)で終わるのだから。「いる」は人間の基本なのだから。
 さらに言えば、「いる」の本質的価値が見失われている、と東畑は書いているけれど、ならば、「する」「なる」の本質的価値は何なのか?――とソルティは問いたい。
 「する」ことは幸福につながるのか?
 「なる」ことで人は幸福になるのか?


 いつかその問いにぶつかった時、東畑は遠く沖縄のデイケアの室内に広がる午後の光を胸によみがえらせるのではなかろうか。


あくび猫



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損