2017年原著刊行
2018年早川書房

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 この本がどんな本なのかは、解説の魚川祐司(主著『仏教思想のゼロポイント』)が端的かつ的確にまとめている。

(一)現代人の一人として仏教者でない人々とも感覚を共有する著者が自ら瞑想を実践し、
(二)仏教の説く「真理」を科学的な知見を裏づけとしつつ語り直して、
(三)さらにその実践と哲学を、究極的には単なる「いやしの道具」としてではなく、むしろ「精神的」な探求の道として、私たちに提示しようとする著作である。

 原題は WHY BUDDISM IS TRUE 「なぜ仏教は正しいか」。
 なんとも大胆にして自信満々なタイトルである。
 その自信の根拠となっているのは、科学ジャーナリストである著者の有する最先端科学(神経科学、心理学、進化心理学e.t.c.)の知見と、著者自身がマインドフルネス瞑想(=ヴィパッサナー瞑想)体験で得た智慧とである。
 とくに本書では、ダーウィンの自然選択説をもとに人類の心のメカニズムを説明しようとする進化心理学の記述が多い。

進化心理学(evolutionary psychology)とはヒトの心理メカニズムの多くは進化生物学の意味で生物学的適応であると仮定しヒトの心理を研究するアプローチのこと。
(ウィキペディア「進化心理学」より抜粋)

 ソルティが「なるほど!」と膝を叩いたのは、この進化心理学の考え方によって、「人類がなぜ苦しみから抜けられないのか、なぜ幸福になれないのか」、すなわち仏教でいうところの「一切行苦」や「無明」を見事に説明しうるのである。

 結局のところ自然選択は一つのことしか気にかけていない(ここはかぎかっこをつけて、一つのことしか「気にかけていない」とするべきだろう。というのも、自然選択はやみくもに進むプロセスでしかなく、意思を持つ設計者ではないからだ)。自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生き抜いてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。
 だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれた場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解だ。そのような知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。
 脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている。

 しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。

(ゴチックはソルティ付す、適宜改行)

 生の目的が「遺伝子を残すこと」にあり、そのためにヒトが「最適化」されているのであれば、仏教で言うところの三毒(貪・瞋・癡)、すなわち食欲・性欲に代表される「欲(貪)」、生殖のライバルを蹴落とすために動員される「怒り(瞋)」、そして妄想を妄想として見抜くことのできない「無知(癡)」は、当然なくてはならない基本スペックとなる。結果、ドゥッカ(苦、不満足)は常につき従う。
 ヒトはあたかも不幸になるように設計されている。(他の生物もだが・・・)

 この馬車馬のような「生」、ロボットのように機械的な「生」から抜け出したいのならば、あるいは(本書でも引用されている)映画『マトリックス』の主人公ネオ(=キアヌ・リーブス)のように「妄想ととらわれの人生」から脱して「洞察と自由の人生」に飛び込みたいのならば、すなわち生の目的を「幸福になること」に設定し直したいのならば、仏教(とくにテーラワーダ仏教)を学ぶに如くはない、マインドフルネス瞑想の実践に如くはない。
 それが著者の一番言いたいことである。

 人の脳は、飛びこんでくる入力にかなり反射的に反応するよう自然選択によって設計された機械だ。感覚器官からの入力に、支配されるよう設計されているといってもいい。支配のかなめとなるのは入力に反応して生じる快や不快の感覚だ。
 もしタンハ―(ソルティ注:渇愛)を介してこの感覚に対応するなら、つまり快の感覚に対しては反射的に渇望が生じるにまかせ、不快の感覚に対しては反射的に忌避が生じるにまかせるのなら、まわりの世界に支配されつづけることになる。
 しかし感覚にただ反応するのではなく、感覚をマインドフルに観察すれば、ある程度その支配から抜けだせる。

 きわめて論理的である。
 感覚をマインドフルに観察する――これがヴィパッサナー瞑想の極意である。
 あとは実践のみ。

 ソルティは十年来テーラワーダ仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想(=マインドフルネス瞑想)を日々実践している。
 なので、本書に頻出する仏教の専門用語に馴染んでおり、「無常」「無我(空)」「苦」といった概念も、瞑想体験を通じてある程度は得心している。そのせいか、本書を読むのに特段の困難は覚えなかった。著者が瞑想合宿中に体験した数々の現象の記述も、「そうそう、自分も同じだった」と共鳴できるものが多かった。
 が、これから仏教を学んでみよう、瞑想をやってみようと思う人にとっては、本書はこむずかしく感じられるかもしれない。その意味で、入門書というよりは、瞑想修行している人が修行の根拠と価値とを再認識できる「励みになる本」として意義が高いのではないかと思う。
 
 それにしても、現代科学が到達し解き明かしつつある現象について、はるか二千年以上前にブッダは知悉し説き回っていたという仰天すべき事実!
 すべての人類は(生命は)ひれ伏して然るべきではないか。


仏像 (2)


ブッダン サラナン ガッチャーミ  (覚者に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャーミ (真理に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャーミ (僧団に帰依したてまつる)

 

評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損