2016年
127分
配給:トランスフォーマー


 京都天龍寺の禅僧ヘンリ・ミトワ(1918-2012)の生涯を描いたドキュメンタリー。
 生前の本人および妻子や友人知人へのインタビュー、過去の様々な資料(写真やホームビデオや雑誌記事や政府の公式記録など)の使用のほか、青年時代のヘンリ・ミトワをウエンツ瑛士、その母親を余貴美子が扮して再現ドラマ化、一人の男の人生の再構成をはかっている。


 映画にならなければほとんどの日本人は存在を知ることなかったであろうこの禅僧を、中村監督はなぜ対象に選んだのか。
 一言で言えば、人間的魅力からであろう。


 ドイツ系アメリカ人でチャップリン映画の配給をしていたという父親と、新橋で芸者をしていた母親との間に生まれたハーフ。それが原因で戦時中は日本にいては警察に目を付けられ、アメリカに移住してはスパイ疑惑により収容所暮らしを余儀なくされた。
 ラジオ製作や家具づくり、絵画や茶道や陶芸、通訳に雑誌づくり、果ては映画製作にまで手を広げる多才さ、器用さ。
 妻子をアメリカに残して一人来日、禅僧として厳しい修行をこなし、いまや仲間うちから一目も二目も置かれる仏教者。
 一方、家族の中では独裁者として畏れられ、煙たがられ、成人した子供たちとの関係や亡き母親への思慕と悔悟に苦悩する煩悩の徒。
 それが人生も終わりに近づき、突如として一念発起、童謡「赤い靴」の映画化にロマンを賭ける。


 たしかに波乱万丈、自由奔放、奇天烈至極な人生である。
 結局、念願の『赤い靴』映画化は叶わなかったけれど、それ以外、「やりのこしたことはまったくあるまい」と傍からは思えるような、本人も十分満足しているであろうと思えるような人生である。
 ところが、当人はカメラに向かって吐露するのだ。
 「この人生、生きたほうが良かったのか。まったく生きなかったほうが良かったのか?」


 観る者は、映画前半のミトワの屈託ない笑顔と鷹揚たる言動に、「悟った坊さんがここにいる」という印象を持つ。
 それが後半、あたかも「化けの皮がはがれた」かのように、映画製作の野心に取りつかれ、肉親との愛憎に振り回され、映画スタッフに対して「ぶっ殺す」と凄む、一人の老いた俗人を見る。
 人間性の複雑さよ。


 この映画を観ていてソルティが連想したのは、オーソン・ウェルズ監督、主演の『市民ケーン』(1941)であった。
 新聞王と言われ実業家として成功したケーンが死の床でつぶやいた最期の言葉、「バラのつぼみ」。
その言葉の謎を探ろうと一記者はケーンの生涯を追う。
 ラストシーンで観る者は、この「バラのつぼみ」にまつわる少年時代のエピソードこそが、ケーンの生涯を決定づけ、成功と称賛に向かって彼を駆り立てた要因だったと知る。
 ミトワにとっての「赤い靴」は、ケーンにとって「ばらのつぼみ」に相応するようだ。


 一人の男の人生の謎を描いたものとして、面白いし、よくできていると思う。
 ドラマ部分のウエンツ瑛士も余貴美子も適役で印象に残る好演である。
 母への思慕に物語を収斂させたがるスタッフの意図がいささか作為的な感もあるけれど、成人して人の親となったいまもミトワにアンビバレントな思いを抱く次女のエピソードなど、家族というテーマの抜き差しならない深さ、重さ、すなわち「業」を抉り出しているのは見事である。


 一方、せっかくの禅僧なのだから、その部分にも肉薄してほしかった。
 つまり、ミトワにとっての禅の意味、仏教の価値を追求してほしかったと思う。
 そもそもなんでミトワが出家したのか、禅のどこに惹かれたのか、観る者には知らされない。
 これは、監督の宗教観、仏教観(あまり仏教に関心がない?)ゆえなのだろうか。
 それとも、ミトワが仏教を語るシーンが全然ないのは、不立文字である禅の必然性なのか。
 あるいは、ミトワの自家撞着してるような人生そのものがひとつの「公案」であり、それを解くのはこの映画を観るひとりひとりに託されているということなのか。


赤い靴




評価:★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損