2017年原著刊行
2018年プレジデント社より邦訳発行

 ベーシックインカムとは、個人に対して、無条件に、定期的に、少額の現金を給付する制度のことである。
 無条件なので、年齢、性別、婚姻状態、就労状況、就労歴、年収には関係ない。まったく働いてなくて無収入の人も、年収数十億という人も、子供も老人も、基本同じ額がもらえる。

 90年代半ばにこの言葉を最初に聞いたとき、「なんて素晴らしい制度なんだ!」と思った。ちょうど失業中だったせいもある。失業保険をもらっていたのだが、それがあと数日で切れるというのに次の職が決まっていなかった。そのうち貯金も尽きてしまい、アルバイトでつなぐしかなかった。時給950円のコンビニの夜勤をしながら、家賃と光熱費を払い、国民健康保険や国民年金や住民税の納付書を若干の後ろめたさを覚えながら引き出しの奥に押しやり、仕事を探し続けた。うっかり病気になることもできなかった。昔の友人から結婚式の招待状が届いたが、交通費と祝い金をひねり出すことができず、欠席した。
 たまっていくお役所からの納付書を見ながら、「ああ、こういう生活が数年も続いたら、社会から脱落し、破綻するだろうなあ」と思った。毎月給与が保障されて有給休暇があって保険も年金も厚遇されている、多くの日本人が属している会社員という身分からいったん外れると、転げ落ちるように貧困化、脱社会化していき、そこから這い上がるのは容易ではないのだなあ、とつくづく思った。
 そんなときベーシックインカムという言葉に出会ったのである。

 この制度があったなら、失業しても安心して生活が営める。
 落ち着いた心持ちで自分に合った仕事をじっくり探すことができる。
 そのための職業訓練や資格取得のための勉強もできる。
 心身の調子が悪いならば(長い人生、そういう時期は誰にだってあるはず。当時のソルティも実はそうだった)、具合が良くなるまで働くのを控えて養生することもできる。
 そうだ、思い切って起業だってできるではないか。たとえ失敗して破産したところで、ベーシックな生活費だけは保障されるのだから、文無しになるのを恐れる必要がない。
 なによりも、失業保険をもらうために毎月ハローワーク(当時は職業安定所)に行って、机の向こうの愛想のないお役人から侮蔑と不信の眼差しを向けられ、ポジティブな気分を損なわれながら、働く意思の表明をし続ける必要もない。
 
 いいことずくめに思われた。
 だが一方、実現可能性については「夢物語」という気がした。
 なによりも莫大な費用がかかる。
 日本国民全員に生活保護レベルの、とはいかないでも国民年金レベルの現金を毎月給付するとしたら、単純計算で年間、120,000,000人×70,000円×12ヶ月=100,800,000,000,000(100兆8千億)円の予算が要る。現在の日本の年金給付費は年間60兆円近いから、40兆円足りない。(ちなみに、生活保護負担金は年間4兆円に満たない) どこから捻出できるというのか?
 また、もし働かないでも暮らせる仕組みができてしまったら、だれも働かなくなって経済は破綻してしまうのではないか? 社会は回らなくなるのではないか?

 そのうちに正社員の仕事が見つかって、ベーシックインカムについて考えるのはペンディングになった。
 が、その後、別の理由から再びこの制度について考えるようになった。
 仏教と出会ったためである。

雲辺寺五百羅漢 
四国霊場66番雲辺寺の五百羅漢


 仏教を学んで瞑想修行するようになると、だんだんと俗世間がわずらわしくなってくる。9割がた(?)金と成功と娯楽への追求で回っている社会から、できるだけ身を引き離したくなる。贅沢にも社交にも関心が薄くなり、そこそこ生活できるくらいの収入でも瞑想さえできれば満足がいくようになる。厭離が高じると、修行者は出家を考えるだろう。
 が、そこでネックとなるのが、我が国の仏教文化には出家者の集まりであるサンガというものがなく、サンガの生活を支えるための在家仏教徒による喜捨という習慣が根付いていないことである。タイやスリランカやミャンマーなど原始仏教の伝統を守る国々に行けば、袈裟と鉢以外は何一つ持たない出家者が毎朝街に行って乞食し、その日の分の食べ物を容易に得られるさまを目にすることができよう。寺や精舎(住まい)も寄進される。そうやって、在家の人たちは出家者の修行生活を支えることで功徳を積み、自らの極楽往生や来世でのいっそうの幸福を願うのである。
 あるいはまた、修行の結果にせよ偶然にせよ、悟りをひらいた人は俗世間に馴染まない。「我」が非常に薄れるためである。(悟りの最終段階である阿羅漢になると、「我」がなくなると言う) いまの日本で下手に悟ってしまったら、もともと資産家でない限り、河川敷のホームレスにでもなりかねない。
 仏道を歩もうと志した者が、雑事に悩まされることなく安心して修行に邁進できて、めでたく悟った暁にはさらりと世間を捨てられる。それを可能にするシステムとして、ベーシックインカムは理想的である。
 いや、話はなにも仏道に限らない。
 お金にはならないけれど自分のやりたいことを持っている人間にとって、この制度は自由と自己実現を叶える手段となる。
 働かざる者、食って良し。

IMG_20191127_121207
 
 この本は、ベーシックインカムへの賛成論と反対論を一とおり読者に紹介することを目的としている。

 読者にベーシックインカムの基礎知識を提供し、掘り下げた紹介をすることにある。ベーシックインカムとはどういうものか、この制度が必要な理由として挙げられてきた三つの側面、すなわち正義と自由と安全について論じ、あわせて経済面での意義にも触れる。また、さまざまな反対論も紹介する。とくに財源面での実現可能性の問題と、労働力供給への影響についても検討する。さらに、実際に制度を導入するうえでの実務的・政治的な課題も見ていく。
(標題書より抜粋、以下同)

 著者のガイ・スタンディング(Guy Standing →立っている男?)は経済学者で、ベーシックインカムの世界的啓蒙団体BIEN(Basic Income Earth Network)の共同創設者である。BIENは1986年に発足、その後30年以上にわたって研究や政策提言や市民運動に取り組んできた。日本を含む(!)世界各国に支部や連携団体を持っている。
 ソルティはたまたま図書館で目に入った本書を選んだのだが、ベーシックインカムの歴史的経緯、国際潮流、様々な地域における試験プロジェクトとその結果、もちろん意義と実現可能性までを記した総合的な入門書として、おそらく最適な一冊であろう。
 副題に「正義・自由・安全の社会インフラを実現させるには」とある。

 本書でガイが挙げているベーシックインカムの賛成論と反対論を大まかにまとめると、以下のようになる。

【賛成論】
  • 社会正義を実現する手段となる
  • 自由を拡大できる
  • 貧困、不平等、不安定を緩和する
  • 経済面でもフィードバック効果を生む
【反対論】
  • 財源を確保できない
  • 怠け者が増え、労働力の供給が減る
  • 賃金の下落につながる
  • 福祉国家の解体につながる
  • 金持ちにも金を配るのは馬鹿げている
  • 浪費を助長する
  • 移民の流入が加速する
  • インフレを起こす  e.t.c.

 それぞれの理由の詳しい説明は本書にまかせるとして、賛成論のうちの「自由を拡大できる」について、ガイの挙げている具体例を引用しよう。すごく納得いくと思う。
 
  • 困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
  • 経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
  • 賃金が減ったり、不安定化したりしていても、いまの仕事を続ける自由
  • ハイリスク・ハイリターンの小規模なベンチャー事業を始める自由
  • 経済的事情で長時間の有給労働をせざるをえない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
  • 創造的な活動や仕事に取り組む自由
  • 新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
  • 官僚機構から干渉、監視、強制されない自由
  • 経済的に安全を欠く相手と交際し、その人と「家庭」を築く自由
  • 愛情を感じられなくなったり、虐待されたりする相手との関係を終わらせる自由
  • 子どもを持つ自由
  • ときどき怠惰に過ごす自由

 反対論のそれぞれについて、ガイは論破なり解決策の提示なりを行っている。
 たとえば、ベーシックインカムが成立すると弱者に対する公共サービスや福祉給付などが廃止されかねず「福祉国家の解体につながる」という反対意見に対しては、「高齢者や病弱な人、障がいがある人への給付を上積みする」という論者の意見も提示している。
 最大の難題たる財源に関しての議論は、ソルティは経済にも数字にも弱いので正直何とも言えない。ただ、日本はほうっておけば2065年には2.6人に1人が高齢者(65歳以上)になるわけで、年金の受給開始年齢を幾分引き上げるとしても、国民の相当数がベーシックインカム状態になる。加えて、若い人に面倒を見てもらわなくてはならない立場になる。国を挙げて若い人の生活を保障してあげる義務があろう。
 「労働力の供給が減る」という問題については、過去に世界各地で行われた数々のベーシックインカム試験プロジェクトの結果から、「ベーシックインカムが導入されても労働力は低下しなかった」ということが明らかになっている。
 そりゃあ、そうだ。ビル・ゲイツはなぜ今も働いているのか。タモリやイチローはなぜ南の島で安楽な余生を送らないのか。
 
多くの国の世論調査の結果を見ると、ベーシックインカムを受け取れるとしたら、働く量を減らすかという問いに対し、圧倒的大多数はそのつもりがないと回答している。しかし、ほかの人たちが働く量を減らすと思うかという問いに対しては、そう思うと答える人が多い。要するに、「みんなは怠け者だが、自分だけは違う」と思っているのだ。
 
 ほとんどの人はより“良い”暮らしを望むから、ベーシックインカム収入だけで満足することはないだろう。日本人は特に「仕事が生きがい」の人は多いから、なんだかんだ言っても働くことはやめないと思う。
 
 さらに、日本人ということで言えば、ベーシックインカムは我が日本国憲法の精神をもっともシンプルに実現する手段である。
 
 日本国憲法第25条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 
 この第25条が現行の生活保護制度の基盤となっているのであるが、資力調査を前提とする生活保護制度は、手続きが煩瑣で、個人や親族のプライバシーに踏み込まれ、受給者に「負け組」スティグマを与えるなど、いろいろと問題も多い。そして、一定以下の年収で働きながら税金や医療保険や医療費を納めている人より、それらが免除されている生活保護世帯のほうが相対的に家計支出が少なくなる、という逆転現象が起きているので、なかなか生活保護をやめて就労しようというベクトルが生まれない。
 ベーシックインカムなら、すべての国民に「最低限度の生活を営む権利」を無条件で保障できる。

 
野菊
 
  
 さて最後になるが、実は本書を読んでソルティが一番度肝を抜かれたことは、ガイが賛成論のいの一番に持ってきた「社会正義を実現する手段となる」という理由であった。
 ベーシックインカムと社会正義?
 どういう意味?

ベーシックインカムは、どのような倫理的・哲学的根拠によって正当化できるのか? 根幹を成す主張の一つは、社会の富はみんなのものという考え方の下、社会正義を実現する手段になるというものだ。

ベーシックインカムは、先人が創造・維持してきた社会共通の遺産から給付される社会配当、そして、万人のものである共有地と天然資源が生み出す収益の分け前と位置づけられる。


 ガ――ン!

 そうであった。
 ソルティも子供の頃、不思議に思ったものだ。
   
 大地はだれのもの?
 海はだれのもの?
 森はだれのもの?
 川はだれのもの?

 人類みんなのもの、否、地球上の生命すべてのものじゃないか。

 なのに、なぜ大地から取れるダイヤモンドや石油が一部の人だけに独占されるの?
 なぜ海の魚が特定の国に乱獲され、しかも大量廃棄されるの?  
 なぜ森の木々が一企業によって伐採され、山肌が剥き出しにされるの?
 なぜ原価タダの川の水が、ペットボトルに入れられると有料になるの?

 あなたたちは私を裏切った・・・(グレタ・トゥーンベリ?)

 万人の共有財産から得られる収益に対して、我々は配当を要求する権利がある!
 いや、そもそも共有財産の用い方について本来なら決定に参加できる権利がある!
 なぜなら、用い方によっては甚大な健康被害を受けることになるのは、ほかならぬ地球市民一人一人なのだから。
 社会正義を実現するとはこういう意味だったのだ。

 ここまでくると、ベーシックインカムが単なる貧困対策とか働き方改革といった制度上の概念ではなく、ひとつの社会思想であることが見えてくる。人類の意識を根底から変え得る、フランス革命を導いた人権思想の如き、パラダイムシフトの手段たりうることが予見される。

 まさかそこまでのものとは思わなかった。


青龍寺の猫
砂浜でドッジボールに興じる高校生ら(四国霊場36番青龍寺付近)
 


評価:★★★★ 

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損