1934(昭和9)年 大谷大学イスタン・ブデスト・ソサイエティより原著刊行(英語)
1940(昭和15)年 大東出版より邦訳刊行
2004年 講談社学術文庫
2004年 講談社学術文庫
金沢旅行で鈴木大拙館を訪れた際に購入した。
最初に英語で刊行されたことから分かるように、欧米人向けの禅の入門書として書かれた。その類いのものとしては、おそらく世界で最も早く、最も簡潔にして、最も要点を突いている名著と言えるのではなかろうか。
とは言え、禅や仏教に馴染みの薄い当時の欧米人読者のための、禅の「いろは」を押さえた分かりやすい案内書かと思ってページをめくると、そうは問屋がおろさない。日本人かつ仏教徒であるソルティが読んでも、難解というか、分かりにくい印象を受ける。
その理由は、禅そのもののつかみどころのなさ、語り難さに出来するのではないかと思われる。
もちろん、仮にも「入門書」を謳うならば当然期待されてしかるべき事柄はちゃんと記されている。
禅(仏心宗)の成立した歴史的背景とか、禅の歴史に名を残す傑出した禅師たちのエピソードとか、有名な公案の数々とか、禅寺の生活風景とか。あるいは、ずばり禅の目的も明確に述べられている。
禅は洞察によって心の本性に達し、心のそのものを見出し、自らの心の主となるのを目的とする。この心または精神の真性に到達することが禅仏教の根本目的であるのである。
禅修業の目的は事物の観察に対する新見地を獲得することにある。もし我々が二元主義の法則に従って、論理的に考える習慣を持っているならば、それを捨て去ることである。
分かりにくさの理由の一つは、上記の「心または精神の真性」なり「事物の観察に対する新見地」なりが、まったくの個人的経験であり、言葉や論理による説明を超えたものであり、キリスト教やイスラム教や禅以外の大乗仏教に見られるような「神、浄土(天国)、霊魂」といった宗教的アイコンとはまったく関係を持たぬゆえである。
禅は宗教であるか。これが一般に考えられるような意味では、それは宗教ではない。禅には拝すべき神もなく、守るべき儀式もなく、死者の行くべく定められた未来の住家もなく、さらに最後に、何人かによってその幸福が保障されるであろうような霊魂なるものもないのである。
では、禅は哲学か?
それもまた違うと大拙は言う。
本書を読んだ西洋人の頭の周りに、いくつものクエスチョンマークが点灯するのが見えるようだ。
要は、悟りである。
禅は悟りを目的としている。
が、人は悟りを語ることができず、語ってはならず、語ったそばから逃げていく。そんな雲をつかむようなものなのである。
大拙は、次のように語るにとどめている。
悟りを得なければ、何人も禅の真理に入ることは出来ない。悟りは今迄夢想だにもされなかった真理に対する新しい意識への突然の閃きである。それは知的または表現的事項を多く積み重ねた後に、一時に起るところの一種の心的激動または爆発である。この分別的堆積が絶頂に達して、もうこの上積まれぬというところまで行くと、この建物は地上に倒れる。その時に新しき天が眼の届く限りに開けるのである。
わずか一瞬の間にすべての事態が一変して禅が得られる。しかして、自身元のままながら完全で普通の人なのである。が、同時に何物か全然新しいものが得られたのである。何となれば、すべての心的活動は今や以前とは異なった基調に従って動き、しかして一層満足な、一層平和な、かつ従来味わったことのない歓喜の充実が得られるのである。人生の調子は一変するのである。
わかりにくさのいま一つの理由は、この悟りに至るための手段がまた曖昧模糊としているためであろう。
これは禅の二大流派である曹洞宗と臨済宗とでは事情が異なる。
まず、曹洞宗と言ったら「修証一如、只管打坐」である。ただひたすら坐る。坐ることそのものが目的(=悟りそのもの)と言えば聞こえはよろしいが、やっぱり、修証一如が感得できるレベルになるまでの何らかの心的階梯はあるはずで、よほどの天才でない限り、「黙って坐ればピタリと悟る」というわけにはいかないだろう。幸運にも悟ったあとにこそ、はじめて修証一如が実感(あるいは体現)できるわけで、それまでは坐禅はどうしたって悟りのための手段にならざるを得ない。
では、どのように坐禅をすれば悟りに近づけるのか。
そこのところが、不親切というか曖昧模糊としているように思うのだ。たとえば、お釈迦様の直説による最古の経典群を重んじるテーラワーダ仏教(上座部仏教)と比べてみたとき、曹洞禅の方法論のおぼつかなさは歴然としている。
一方の臨済宗は、悟るための手段として公案を用いる。大拙は臨済宗の人なので、本書には公案についての記述が多い。その公案がなんともチンプンカンプンである。
これは禅の二大流派である曹洞宗と臨済宗とでは事情が異なる。
まず、曹洞宗と言ったら「修証一如、只管打坐」である。ただひたすら坐る。坐ることそのものが目的(=悟りそのもの)と言えば聞こえはよろしいが、やっぱり、修証一如が感得できるレベルになるまでの何らかの心的階梯はあるはずで、よほどの天才でない限り、「黙って坐ればピタリと悟る」というわけにはいかないだろう。幸運にも悟ったあとにこそ、はじめて修証一如が実感(あるいは体現)できるわけで、それまでは坐禅はどうしたって悟りのための手段にならざるを得ない。
では、どのように坐禅をすれば悟りに近づけるのか。
そこのところが、不親切というか曖昧模糊としているように思うのだ。たとえば、お釈迦様の直説による最古の経典群を重んじるテーラワーダ仏教(上座部仏教)と比べてみたとき、曹洞禅の方法論のおぼつかなさは歴然としている。
一方の臨済宗は、悟るための手段として公案を用いる。大拙は臨済宗の人なので、本書には公案についての記述が多い。その公案がなんともチンプンカンプンである。
公案は文学的には公文書、あるいは権威的法規を意味するもので、宋朝の末期に流行した言葉であった。現在では古の禅師の逸話、あるいは師匠と弟子の間の問答、または禅師によって提出された命題質問を意味し、すべて心を開き、禅の真理に導くための方法として用いられている。勿論初期にあっては今日吾々の知るような公案はなかった。これは後世の師匠達が、その溢れんばかりの老婆心から天賦のない弟子の精神的進化を強いて計らんがために工夫された一種の人為的手段である。
本書に挙げられている公案の一つを挙げよう。
兎と馬とに角がある
牛と羊とに角がない
豪末ほどの塵もここにはない
しかも山の聳えるごとくに巍巍堂々としている
黄金の霊骨は今もなお存在している
白浪が滔々として天を浸すとき、どこに手の着けようがあるか
着けようはどこにもない
その昔、達磨は隻履を下げて西へ還って行ってしまった
この英訳を見てみたいものだ。
まるでマザーグースの一節のようではないか。
さらにもう一つある。禅を分かりにくくしているのは、あるいは本書の記述を分かりにくくしているのは、禅という言葉の用い方にある。
本書では、同じ一つの「禅」という語が、幾通りかの異なった意味で用いられている。
すなわち、
- 大乗仏教の一宗派(仏心宗)を意味するものとしての「禅」
- 悟りという目的(あるいは境地)を意味するものとしての「禅」
- 悟りへ至る手段としての坐禅や公案を意味するものとしての「禅」
- 修行中の、あるいは悟った後の日常生活のあり方を意味するものとしての「禅」
大拙は本書で自在にこの使い分けを行っているのだが、上記の「禅」という言葉の多義性に関する解説や注釈がいっさいないので、読む者はわけが分からなくなってくる。事物を理解するのにまずもって明確な定義を求める習慣のある欧米人にしたら、なおさらであろう。
なるほど、「禅」の妙味は、それが手段であり、目的であり、日常生活スタイルであり、一つの教えであるところにこそあるのだろう。それらを一つ一つ切り離すことは適当でない。大拙の記述には何ら不適当はない。
ただ、やっぱり不親切を感じるのも事実。ことさら謎めいたふうを装うことで禅に対する欧米人の関心を掻き立てようという、世界進出における戦略の一端だったのかもしれないが・・・。
なるほど、「禅」の妙味は、それが手段であり、目的であり、日常生活スタイルであり、一つの教えであるところにこそあるのだろう。それらを一つ一つ切り離すことは適当でない。大拙の記述には何ら不適当はない。
ただ、やっぱり不親切を感じるのも事実。ことさら謎めいたふうを装うことで禅に対する欧米人の関心を掻き立てようという、世界進出における戦略の一端だったのかもしれないが・・・。
ソルティは、大乗仏教の中で最もテーラワーダ仏教、すなわちお釈迦様の直説に近いのが禅だと思う。
神や霊魂の存在を説かない、偶像崇拝や儀式をありがたがらない、お題目や真言のたぐいの呪文に頼らない、極楽往生ではなく悟りを目的とする、悟るための修行を重視する、といったあたりはテーラワーダ仏教と通じるものがある。
一方、方法論について、両者はかなりの隔たりがある。
テーラワーダ仏教では、八正(聖)道や瞑想法といった悟るための方法論が体系的にしっかり構築され明示されている。智慧の醸成による悟りへの階梯が明晰に説かれ、修行者が自分の瞑想の進み具合を知ることのできる指南書さえある。きわめて合理的でシステマティックで、曖昧模糊としたところも神秘もない。テーラワーダ仏教のエッセンスである輪廻転生や解脱といった教理をスムーズに受け入れられるかどうかはともかくとして――19世紀の西欧人は仏教を虚無の信仰と怖れた――教義や方法論の理解という点では、欧米人も取っつきやすいであろう。
それに比べると、只管打坐にせよ、公案にせよ、禅の方法論はまるで東洋の神秘そのものである。性急な性分のソルティにしてみれば、禅の修行者たちはよくもまあ、この曖昧模糊たる悟りシステムに耐えられるなあと感心してしまうのである。
評価:★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損