2011年光文社

 書店員が選ぶ2012年本屋大賞の第一位を獲得した作品。
 国語辞書の制作に情熱をかける編集者たちの姿をユーモラスなタッチで描く。

 肩の凝らない楽しく感動的な物語の背後から、小説家である三浦しをんの、自らが武器とする「言葉」に対する愛と、それを使ってさまざまな思いを表現することへの覚悟が伝わってくる。
 主要登場人物である編集者の馬締(まじめ)と国語学者の松本は、日本の国語辞書がすべからく国(たとえば文部省)の公的資金によってではなく、民間(個人や出版社)の自己出資によって作られてきた事情について、こう肯定する。

馬締  「言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね」

松本 「言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない」

(発話者はソルティ記す)

 確かに、『古事記』や『日本書紀』や検定教科書に見るように、国家の息がかかった出版物は権力側にとって都合の良い記述が並び、事実であっても都合の悪い物事は歪曲・隠蔽される。日本人の言葉の砦ともいえる国語辞書が、民間の手によって編まれてきた歴史は、素晴らしいことなのだ。


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 一方、たとえ民間の手によるものであっても、やはりマジョリティという権力によって、たとえ意図的でないにせよ、記述が抑圧的になることがある。そのあたりの事情もまた、本の中で取り上げられている。
 新人の女性編集者である岸辺が、ベテランとなった馬締に【愛】の定義について問い詰める場面だ。

岸辺  「さらに変なのは、恋愛的な意味での『愛』について説明した、②の語釈です。『②異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。』となっていますよね」
馬締  「なにかおかしいでしょうか」
岸辺  「なんで異性に限定するんですか。じゃあ、同性愛のひとたちが、ときに性欲も伴いつつ相手を慕い、大切だと思う気持ちは、愛ではないと言うんですか」

(適宜省略。発話者はソルティ記す)

 ソルティも自らのセクシュアリティに直面し、クラス一の美少年に「ぽわ~ん」となった思春期の頃、辞書でエッチな言葉を手あたり次第引くのと同時に、【恋愛】の定義に「男と女が・・・」とか「特定の異性に・・・」とあるのを見て、なんとなく疎外された気持ちになった。おそるおそる【ホモ】を引くと――当時【ゲイ】という言葉は一般化していなかった――「性的倒錯者」とか「変態性欲の一種」などと書かれていてギョッとした。
「ああ、自分はこのさき、変態の倒錯者として生きてゆくのか!(るんるん)」

宇宙人

 今の辞書はどうなっているのだろう?

 現在、国際医学会やWHO(世界保健機関)において、【同性愛】は「異常」「倒錯」「変態」とはみなされず、治療の対象から外されている。人権の観点からも、さすがにかつてのようなおどろおどろしい記述は無くなったようだ。
 一方、【恋愛】については、残念ながら旧態依然としてヘテロ至上主義のままのようだ。
 広辞苑(岩波)、大辞林(三省堂)、大辞泉(小学館)、日本国語大辞典(小学館)、学研国語大辞典、明鏡国語辞典(大修館書店)、新明解国語辞典(三省堂)など日本の代表的な国語辞典が無料で検索できるサイトで調べてみると、唯一、明鏡国語辞典だけが、


 異性同士(まれに同性同士)が互いに恋い慕うこと。また、その感情。


と定義している。しいて突っ込むならば、「まれに」でなく、「または」とすべきだ。さらにしいて突っ込むならば、「異性同士、同性同士」でなく、「人と人とが」で良いと思う。
(サイトに掲載されている各辞書の発行年は不明なので、最新版では変更されている可能性あり)

 よく考えてみると、【恋愛】も【同性愛】も明治時代以降に西欧から輸入された概念であり、言葉である。西欧における定義がそのまま(偏見と共に)日本に移管されたにすぎない。
 江戸時代までの日本で【恋愛】に相当する言葉を探すなら、おそらく【こひ(恋)】【いろ(色)】だろう。どちらも男女間に限らず使われていたのは言うまでもない。
 言葉によって、知らず人は洗脳される。

 ちなみに、上記の辞典サイトで【ボーイズラブ】という語を掲載しているのは、やはり明鏡国語辞典のみであった。
 大修館、素晴らしいじゃないか!



評価:★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損