1962年大映
99分、カラー

 『刺青』、『卍』に並ぶ谷崎潤一郎原作×若尾文子主演の変態性欲シリーズの一作。
 瘋癲(ふうてん)と読む。誰でもフーテンの寅さんを連想するが、瘋癲には二通りの意味がある。

① 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
② 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
(小学館『大辞林』)

 寅さんや現在のソルティは二番目の意味における瘋癲で、この小説および映画の瘋癲老人は一番目の意味である。

 山村聰演じる77歳の卯木督助の「正常でない精神状態」とは、究極まで洗練されたマゾヒズムと足フェチである。自分の入る墓のデザインを、仏足石ならぬ、大好きな嫁サチ子(=若尾文子)の足跡をかたどったものにしよう、つまり、死んだ後も永遠に嫁の足に踏まれ続けたいと執念を燃やすのだから、恐れ入る。
 原作は未読だが、それなりに純文学しているのだろうと想像する。が、映画はもはや「老人の性」とか「人間の性愛の深淵」とかいう、もっともらしいテーマは飛び越えて、シュールなギャグの世界に到達している。 
 いや、公開当時(58年前)と現在における、変態性欲に対する社会の認知やイメージが変わったせいなのかもしれない。SMやフェチズムはもはや「変態」とは言えないところまで、一般化、娯楽化している。現代の日本人は、この死にぞこないの変態老人の姿を、まるで一昔前の志村けんの爺ギャグのように楽しむことができるほど大人(?)になった。


仏足石と赤い花
仏足石


 別記事で、俳優山村聰の代表作は『東京物語』と書いたが、とんだ偏狭、誤解であった。
 この映画の山村の芝居こそ、日本映画史に残る怪演の一つである。『東京物語』の取り澄ました長男が、こんな浅ましいエロ爺になるとは! 荒い鼻息を吐きながら、若尾文子(実際にはスタント女優)の足のすねに頬ずりする姿は、素か演技かわからないあきれた変態ぶりである。

 木村恵吾監督(1903-1986)は、オペレッタ映画の狸御殿シリーズで知られている。同じ谷崎潤一郎原作『痴人の愛』を宇野重吉×京マチ子共演で撮っている。これ、見てみたい。
 確かな演出の腕、構図や色彩感覚にも優れ、ユーモアとアイロニー精神もある。

 山村聰と東山千栄子が出てきて、日本家屋内のローアングル(足フェチゆえに自然そうなる)が多いせいか、どうも1953年公開の『東京物語』を思い出してしまう。列車や無人の路地などの空ショットの挿入や音楽の使い方などもよく似ており、「こりゃ、確信犯じゃないか?」という気がする。
 小津安二郎が、笠智衆を使って描き出した老人の枯淡の境地、原節子を使って描き出した貞淑でやさしい日本の嫁、両者を使って描き出した性愛を捨象した人と人とのうるわしい関係を、山村聰と若尾文子を使って揶揄しているんじゃないか。「人間が生きるとはそんなきれいごとじゃないよ!」と、同い年生まれ(!)の小津安二郎を、その代表作『東京物語』をパロることで揶揄、挑発しているんじゃないか――という邪推さえ働く。

 調子に乗って、すねから膝、膝から太ももへと頬ずりしてくる督助を、嫁のサチ子は邪険にはねつける。そのセリフが、「お爺ちゃんのくせに生意気よ!」
 一見、老人虐待の言辞のように思われるが、文字通り「足蹴に」された当の本人は、それをたいへん悦んでいるのだから、これは虐待でも差別でもなくて、至高のケアそのもの。体にかけられる尿を、「女王様の聖水」と思う心理と同じである。
 
 いまやテレビ放映は絶対できない、とんでもなく面白い変態映画。
 若尾文子は、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブを軽く超えている。 



おすすめ度 : ★★★★

★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損