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お釈迦様は人間を分析し、5つの構成要素に分けた。
五蘊(ごうん)と言う。

 色(ルーパ)
 受(ヴェーダナ)
 想(サンニャ)
 行(サンカーラ)
 識(ヴィンニャーナ)

お釈迦様はそれらをどう定義しているか。
  • ・・・・四つの元素(地・水・火・風)と、四つの元素によって造られたる物
  • ・・・・六つの感受する器官の働き。いわく、目の触れて生ずる感覚、耳の触れて生ずる感覚、鼻の触れて生ずる感覚、舌の触れて生ずる感覚、身の触れて生ずる感覚、意の触れて生ずる感覚。
  • ・・・・六つの表象する作用。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、観念の表象。
  • ・・・・六つの意志するいとなみ。いわく、色への意志、声への意志、香への意志、味への意志、感触への意志、観念への意志。
  • ・・・・六つの意識するいとなみ。いわく、眼の意識、耳の意識、鼻の意識、舌の意識、身の意識、意の意識。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』蘊相応44「五取蘊の四転」より)


 正直、かなりわかりづらい。
 訳者の増谷文雄は、次のように解説している。
  • ・・・・物質的要素。すなわち、肉体。
  • ・・・・感覚。
  • ・・・・表象。与えられたる感覚によって表象を構成する過程。
  • ・・・・意志(will)もしくは意思(intention)。人間の精神はここから対象に対して能動に転じる。
  • ・・・・対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所。
(同上書の380~381ページ)


 まだ、わかりづらい。
 肉体(色)、感覚(受)はともかく、表象(想)ってなんだ?
 行に与えられた定義の「意志」と「意思」はどう違うんだ?
 識の定義も難解である。
 
 とりあえず、「意志」と「意思」の違いについて解決しておこう。  
 「意志」は「意志を貫く」「意志の強い人」「意志薄弱」など、何かをしよう、したいという気持ちを表す場合に用いられる。
 「意思」は、「双方の意思を汲む」「家族の意思を尊重する」など、思い・考えの意味に重点を置いた場合に用いられる。
(小学館『大辞林』)


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 人間を分析するときに、誰もがすぐ思いつく、もっとも手っ取り早い、万人の了解の得られやすいやり方は、心(精神的要素)と肉体(身体的要素)とに分けることであろう。
 仏教ではこれを、名(ナーマ)色(ルーパ)と呼ぶ。 
 お釈迦様は、精神的要素である「名」をさらに分析して、「受」「想」「行」「識」の四つに分けたのである。
 
 今回もまた、ポー・オー・パユットー著『仏法』(サンガ発行)を参考に、ソルティが現時点で理解する範囲で再定義を試みたい。
  • ・・・・身体的要素(六つの感覚器官――目・耳・鼻・舌・皮膚・心あるいは脳――を有す)
  • ・・・・視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心あるいは脳に感情や思考が生じる
  • ・・・・「受」によって自然と湧きおこる観念やイメージの連想作用
  • ・・・・「受」と「想」によって造られ、新たな行為につながる様々な感情や思考や意志
  • ・・・・認識力(意識)

 たとえば今、「色」の一部である眼が、外界からの光の情報を視覚によって受けて、「赤く丸い物体」を認識する。(色・受)
 たちまち、記憶の中にある様々な観念やイメージが立ち上がる。(想)
 
食べ物、果物、リンゴ、本物、新しい、大きい、きれい、美味しそう、甘い、酸っぱい、青森、紅玉、ふじ、ジョナゴールド、所有者、空腹、歯ごたえ、歯茎から出血、白雪姫、毒、アダムとイヴ、ウイリアム・テル、ニューヨーク、ビートルズ、椎名林檎・・・・

 その結果として、目の前のリンゴに対する何らかの能動的な感情や思考や意志が生じる。(行)
 
食べたい、香りを確かめたい、かぶりつきたい、触ってみよう、踏んづけたい、盗みたい、関心ない、無視しよう、誰のものか聞いてみよう・・・・

 「行」の一歩先は、実際の肉体を伴った行為となり、ここでまた「色」の出番となる。

 問題は最後の「識」である。
 これは十二縁起でも「名色」に先んじて登場するが、「識」と「名色」の関係は、どっちが先で、どっちが後というものではなく、たとえば「受があるゆえに渇愛が生じる」といった順列の因果関係にはあたらないと思われる。
 というのも、お釈迦様はこう言っている。

 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈識があるゆえに名色があるのである。識によって名色があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはこのように考えた。〈いったい、なにがあるがゆえに識があるのであろうか。なにによって識があるのであろうか〉と。
 比丘たちよ、その時、わたしには正しい考え方によって、智慧による悟りが生まれてきた。〈名色があるゆえに識があるのである。名色によって識があるのである〉と。
 比丘たちよ、そこで、わたしはまたこのように考えた。〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、老いてはまた生れ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。つまるところ、この名色によりて識があるのであり、識によって名色があるのである。さらに、名色によって六処があるのである。六処によって触があるのである。・・・・これがすべての苦の集積のよりてなる所以である〉と。
(ちくま学芸文庫『阿含経典1』、因縁相応43「城邑」より)

 別のお経(因縁相応「葦束」)では、お釈迦様の十大弟子の一人で智慧随一のサーリプッタが、名色と識との関係を人に問われて、「相依って立つ二つの葦の束」にたとえている。
 そこで、ソルティは、機能面から見たときの生命現象を「識=認識力」と定義し、構成面から見たときの生命現象を「名色=心と体」と定義したわけである。
 つまり、生命とは、「身体的要素(色)と精神的要素(名)を有し、外界および内界を認識するもの」である。
 
 なので、「名」の4つの要素(受・想・行・識)のうち、「識」だけはちょっと他の3つと位相が異なる。
 「識」は、受・想・行が働く足場のようなものである。
 「識」がないとき、たとえば深い睡眠状態にある時や気絶している時は、受も想も行も働くことができない。
 逆に、受・想・行がないとき、すなわち外界からも内界からも流入する情報がまったくないとき、凪の海に浮かぶ舟のように「識」は止むほかない。
 適切な譬えかどうか自信はないが、人間を映画と考えたとき、「色」が映写機とスクリーン、「受・想・行」がフィルムとそれによって映し出される映像やストーリー、「識」は光線という感じか。


映画館

 
 お釈迦様は、かくも見事に人間を分析し五蘊を唱えたが、大切なのは分析そのものではない。
 五つの要素のどれをとっても、常なるものはなく(無常)、単独で成り立つものもなく(無我)、「私」がコントロールできるものもなく、「私のもの」と言えるものもない。
 すなわち、五蘊の分析を通して「無常・無我・苦」を知り、「私」の虚構性を見抜くことが肝要なのである。
 仏教科学は、科学のための科学ではなく、あくまで修行に役立てることを目的とする。
  
要するに、五蘊の原理は無我(Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。
(ポー・オー・パユットー著『仏法』サンガ出版より)


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 映画とは、スクリーンと映写機ではない。
 撮影されたフィルムでもない。
 フィルムに固定された役者の姿や演技、ストーリーでもない。
 もちろん、映画館でもなければ、暗闇でも光線でもない。
 また、観る者が一人もいなければ、作品は存在しない。

 さて、映画とは何だろう?