増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)第2巻は、相応部経典の中の「人間の感官(六処)に関する経典群」、「実践の方法(道)に関する経典群」、「詩(偈)のある経典群」が収録されている。


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 仏教では、人間の感官すなわち感覚器官を次の6つとしている。
  1.  眼(視覚)
  2.  耳(聴覚)
  3.  鼻(嗅覚)
  4.  舌(味覚)
  5.  身(触覚)
  6.  意

 それぞれの器官は、体の外部あるいは内部からの刺激(=情報)を次の形で認識し取り入れる。
  1.  色(物体)・・・眼は物体を識る
  2.  声(音) ・・・耳は音を識る
  3.  香    ・・・鼻は香を識る
  4.  味    ・・・舌は味を識る
  5.  触    ・・・身体は接触を識る
  6.  法    ・・・意は法を識る

 6つの器官は、人が「世界」を認識するための窓口であり、同時に――ここが重要なところなのだが――世界を造り上げるための道具でもある。
 というのも、我々は、客観的に正確な、ありのままの「世界」を見て知っているのではない。
 上記の6つの感覚器官の働きによって人間仕様に(あるいは個人仕様に)編集された「世界」を見て知っているのである。
 なぜなら、備わっている感覚器官の種類と働きは、生命体によって異なるからである。
 トカゲにはトカゲ仕様の、イルカにはイルカ仕様の、蟻には蟻仕様の、エイリアンにはエイリアン仕様の、盲人には盲人仕様の「世界」がある。
 我々は、「世界に存在している物を認識している」のではなく、「認識した通りに世界を存在させている」のだ。
 お釈迦様はこう言っている。
 
六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみを愛し、世界は六つのものに執着しており、世界は六つのものに悩まされている。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第一章「雪山に住む者」より)
 
 お釈迦様が六処について説いたのは、まさにこの六つの感覚器官こそが人を悩ますものであり、「苦」を生みだす産地だからである。
 もちろん、「楽」を生みだす産地でもあるわけだが、どちらの産出量が多いかは言うまでもないだろう。
 お釈迦様は、六処のいずれについてもまた、五蘊同様、「無常であり、無我であり、苦である」と繰り返し説いている。 
 
つまり、この師は、「無常・無我・苦」の説得と、「厭離・離貪・解脱」の成就のために、時には五蘊について語り、時には六処をあげて語ったのである。すなわち、ある時には、人間そのものを指して、その肉体的要素と精神的要素のあるがままの相(すがた)を省察せしめ、またある時には、人間の内なる感官が、外なる対象に接触して、さまざまな苦楽を感受する、その真相を洞察せよと語っているのである。
(ちくま学芸文庫『阿含経典2』18ページ、増谷文雄の解説より)


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 さて、我々の実感からしてもっとも理解し難いのは、6番目の感覚としてあげられている「意」であり、それが対象とする「法」であろう。
 それ以外の5つの感覚(五感)についてはすんなり納得できよう。
 「第六感」といった場合に我々(年配者)が思いつくのは、フランキー堺司会の『霊感ヤマカン第六感~♪』(古い・・・)であり、「胸騒ぎして搭乗しなかった飛行機が墜落した」といったたぐいのスピリチュアルミステリーであろう。
 ここで言う「意」とは、もちろん、そんなものとは違う。

 「意」とは「心」のことである。
 お釈迦様は「心」を感覚器官の一つとしたのである。
 ソルティは、ここがお釈迦様の、そして仏教の最も革新的で凄いところだと思っている。

 「心」は、他の5つの感覚器官のように、その実体を「これ」と指し示すことができない。
 どこにあるのか、分からない。
 解剖しても見つからない。
 だが、「心」があることは誰もが知っている。
 ソルティはそこで、現代科学に慣らされた我々が少しでも納得しやすいよう、これを「脳」とみなしてもよいのではないかと思う。
 「意」とは、「心あるいは脳」である。

 では、「意=心あるいは脳」が情報として取り入れる対象であるところの「法」とはなんだろうか?

 仏教でいう「法(ダンマ)」とは、一般に、お釈迦様の教えのことであり、すなわち「真実」のことを指す。
 たとえば、仏教の三宝にあたる「仏・法・僧」と言ったら、「お釈迦様・お釈迦様の教え・出家者の集まり」である。
 が、六処における「法」は別の意味である。
 増谷文雄は、これを「観念」と訳しているが、文字通り観念的でわかんねん。

 (_´Д`) アイーン

 
「心あるいは脳」に触れ、「心あるいは脳」が取り入れる情報といったら、なんであろう?
 それは、「心あるいは脳」に浮かぶすべて、すなわち一切の精神内容である。
 具体的に言えば、「思考、感情、意志、記憶、想念など」である。
 眼に色(物体)が触れ、耳に声(音)が触れ、鼻に香が触れ、舌に味が触れ、身体に何かが触れ、それぞれ情報が取り入れられるように、心あるいは脳に「思考、感情、意志、記憶、想念など」が触れ、情報が取り入れられる。
 お釈迦様は、人間の思考や感情や意志や記憶や想念すらも、音や香や味同様の、外部情報もしくは外的刺激とみなしたわけである。

 この「意」と「法」を六処に数える意味が、ソルティには長いこと理解できなかった。
 仏教書や経典を読んでも文意はわかるが、実質何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
 ヴィパッサナー瞑想をはじめても、しばらくは理解できなかった。

 それがある時、はっと腑に落ちた。
 なかなか理解できなかった理由がわかった。
 それは、思考や感情や意志や記憶や想念などとあまりにも自己一体化していて、少しでも離れた視点から客観的にそれらを観るということが、できなかったからである。
 思考や感情や意志や記憶や想念こそが、「私」の核となっていたのだ。
 曰く、我思う、ゆえに我あり

 
ヴィパッサナー瞑想に習熟し、外部から入ってくる音や香や体の感触などの刺激を、何の解釈も評価も好き嫌いの判断も伴わずに、「音は音」として、「香は香」として、「体の感触は感触」として、客観的に観られるようになるにしたがい、瞑想中に心や脳に勝手に浮かんでくる思考や感情や記憶や想念もまた、距離を置いて客観的に観られるようになった。
 すると、思考や感情や記憶や想念が、あたかも、どこからともなくボウフラのように湧いてきて、心や脳に取り憑いて、人を乗っ取ろうと企んでいる、よこしまな霊団か何かのように思われてきた。
 同時に、思考や感情や記憶や想念によって条件づけられた「私」の正体が見えてきた。

 それは、実際にはプログラミングされた通りに動いているに過ぎないのに、主体的意志で生きていると勘違いしている可哀そうなレプリカントさながらであった。


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 デカルトの言葉が近代的思考のはじまりとみなされるように、近代以降の世界に生きる我々は、思考し、感情を抱え表現し、意志を持ち、一貫した記憶を有する個別主体として、「私」を定義し認識している。
 いわゆる、近代的自己である。
 お釈迦様は、2000年以上も前に、「そうではない」と言ってのけた。
 
師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
(『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、中村元訳)、第四章「迅速」より)

 つくづく凄い。


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瞑想の池


 
さて、「意」や「法」を含めた六処は、無常であり無我であり苦であり、生まれては消える現象に過ぎず、そのどこにも「私」が立てる場所はないと瞑想者が悟ったとき、次に出てくる問いはおそらく次のようなものであろう。

六処において刺激を純粋に認識する機能、つまり識(=認識力)こそが、本当の「私」ではなかろうか?
 
 
これを突き詰めると、きっと唯識論梵我一如の非二元の教えになるのだろうなあ~、となんとなく想像する。
 だが、これも、お釈迦様は五蘊の教えで明確に否定している。
 識もまた、無常であり、無我であり、苦であると。
 そこに「私」は存しないし、それは「私」でないと。