1924年原著出版
2012年光文社古典新訳文庫

 ロン・ハワードの『白鯨とのたたかい』を観て、メルヴィルの『白鯨』を読もうかと一瞬思ったが、やっぱりそこまでの気力は湧かなかった。
 そのかわり、メルヴィルの遺作(死後出版)で分量の少ない『ビリー・バッド』に手を出した。
 これもまた『白鯨』同様、メルヴィルが得意とした海洋小説である。

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 傑作である。
 
 メルヴィルには他に『筆耕バートルビー』という時代を越えた傑作がある。
 学生時代に授業で読んで衝撃を受けた。
 『ビリー・バッド』はそれに勝るとも劣らない内容と表現と完成度をもち、出版から100年後に現代人が読んでも、言葉にするのが難しいような感動と衝撃を与えてくれる。

 メルヴィルは生きているうちは小説家として高い評価を受けることがなく、筆一本で生活することもできず、死ぬまで困窮なままであった。
 亡くなったあと数十年してようやくその真価が認識され、評価が年々高まり、ついにはホーソンやヘミングウェイやフォークナーと並ぶ偉大なるアメリカ作家の殿堂入りを果たした。
 彼の表現したテーマが時代の制約を離れた高みにあり、大衆が追いつくまでにタイムラグが生じたのである。

 ビリー・バッドはハンサムで朗らかで逞しく、子どものように純粋、誰からも愛される21歳の水夫。英国軍艦ベリポデント号の人気者である。
 ビリーに嫉妬する上官クラガートは、ビリーを罠に陥れようと、ヴィア艦長に偽りの告発をする。「ビリーは艦内の反乱を陰で扇動している」と。
 クラガートの言葉を信用してはいないものの、役目として艦長は二人を艦長室に呼び寄せ、対峙させる。
 クラガートの出鱈目な讒言を目の前で聞いたビリーは、驚きと怒りのため、生来のどもりが出来し、言い訳することができない。
 つい手が出てしまい、艦長の目の前でクラガートを殴り殺してしまう。
 英国海軍の規律にしたがい、艦長はビリーを処刑せざるを得なくなった。

 あらすじは単純なのだが、この小説の解釈=メルヴィルの意図をめぐって過去にさまざまな読みがなされてきたことが、本書解説(大塚寿郎)に述べられている。
 キリスト教的(神学的)、政治的、道徳的、作者の個人体験、なかにはクラガートのビリー・バッドに対する同性愛感情を読む解釈もあるらしい。
 このような「不確定性」や「曖昧性」――ヘンリー・ジェイムズに通じる?――から、メルヴィルの小説を「ポストモダン的」と評する向きも多い。

その定義自体が曖昧なポストモダニティーだが、簡単に言ってしまえば近代西欧を支えてきた思想と制度に対して懐疑的態度を示す状況のことである。(本書解説より)

 確かに『筆耕バートルビー』は、近代西洋的な仕事観、人生観に対する一種のアンチテーゼと言えなくもない。
 クラガートを殴り倒した後は一切の弁明を拒否し、艦長に命じられるまま粛々と船上の処刑場に赴くビリーの姿に、そしてマストにロープで吊り下げられる直前にヴィア艦長を讃える言葉を放ったビリーのありかたに、西洋近代的な価値(たとえば、自由、人権、平等、生き甲斐、自己追求、自己実現、いのちの尊厳といった)とは異なる「何か崇高なもの」を見るのはありかもしれない。

 ソルティはこの小説を読んでまっさきに、三島由紀夫を思った。
 三島の『午後の曳航』の解剖される船乗り、『豊饒の海』(中でも第2巻の『奔馬』の切腹する飯沼青年)、『鹿鳴館』で革命家の父に撃たれる息子久雄を想起した。
 そして、なによりも三島の愛した聖セバスチャンの殉教を。

 若く美しく無垢なるものが、栄光のうちに処刑される。
 メルヴィルもまたそれをこそ描きたかったのではないかと思った。
 そこに、三島ほどのエロチシズムを托していたかどうかは分からないけれど。 


聖セバスチャン
グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』 




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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損