2019年かもがわ出版
副題は「ひきこもり、その声が聞こえますか」
共同通信の記者たちによるルポルタージュ。
ひきこもり当事者(と言っても“元ひきこもり”になるのはやむをえまい)、その家族、行政や民間の支援者、精神科医の斎藤環らにインタビューし、この問題を多角的視点でとらえている。
- 多額の費用を受け取り、ひきこもりを強制的に家から引っ張り出し、刑務所のような収容施設に閉じ込め、何ら自立支援らしいことは行わない悪徳自立支援ビジネス。
- 社会復帰を目指すひきこもりに就労の場を提供し、あたたかく見守る地域の経営者。
- 女性のひきこもり当事者の抱える男性当事者とは異なる問題(たとえば、男性恐怖の人が多いので男性がいる会合には参加しづらい、母親との関係に悩む人が多いなど)
- 親の高齢化や認知などの要介護化あるいは死によって、ひきこもりを可能ならしめてきた経済的基盤が失われ、生命の危機に直面する当事者。
ひきこもり人口が全国で60万人を超え、年齢も10~70代と広い層におよび、ひきこもりが絡んだ悲惨な事件報道が増え、また当事者の中から声を上げる人が出てくるにつれて、この問題の複雑で多様な相が一挙にあぶり出されてきた感を持つ。
問題が家庭内で隠されてきたこと、あるいは問題が社会に認識されない状態が長くあったことを思えば、ひきこもりが社会問題として陽の目を見た今の状況は、前進というべきなのだろう。
とりわけ、政治的な支援の必要が認識され、厚労省肝いりで各県に「ひきこもり地域支援センター」が設置(平成21年~)されたのは大きい。
やはり、2019年6月に東京練馬で起きた元農林水産事務次官によるひきこもりの息子殺害事件が、官僚や政治家たちにショックを与えたのだろうか。
KHJ 全国ひきこもり家族連絡会のような当事者家族による互助&政策提言活動も全国に広がっている。(KHJ は Kazoku Hikikomori Japan の略)
ひきこもり新聞といった紙媒体やネットを利用した情報発信や交流など、当事者自身の活動も盛んになってきた。
地殻変動につながるような巨大で静かなうねりが起こっている気がする。
日本社会のパラダイムを変えうるような・・・・。
ソルティがひきこもり問題を最初に知ったのは、90年代中頃であった。
当時は、人間関係をつくるのが不得手で社会に出て働くのが困難、といった軽度の精神障害者などの居場所づくりが各地で盛んだった。
80年代に不登校が大きな社会問題となっていたので、なんとなく「その延長かな?」、つまり「80年代に不登校だった子供たちが成人して、今度は社会に出られず、日中を過ごす“居場所”を必要としているのかな?」と思った。
が、そうした居場所に出てこられる人はまだいいほうで、家から一歩も外に出てこられない若者たちがいる、という話であった。
そのころ住んでいた地方都市で、ひきこもり(という命名があったかどうか覚えていない)に関するシンポジウムが初めて開かれて、知人に誘われて参加した。
登壇していたのは、地元の精神科医やフリースクール運営者やアルコール依存症の自助グループの代表などであった。
元当事者や家族の姿は、少なくとも壇上にはなかったと思う。
話の内容はほとんど覚えていないのだが、一つ気になったのは、壇上にいる演者がみな、「ひきこもりが家から出て社会参加することが一番」というモードで語っていた点であった。
当時も今も天邪鬼のソルティは、「なんでひきこもっていたらいけないんだろう?」、「なんで社会参加しないといけないんだろう?」と思った。
質疑応答の場で思い切って手を上げて、こう問うた。
「本人が暴力をふるって家族が困っているとか、家計が苦しいといった場合は別として、そうでない場合、そもそもなんでひきこもっていたらいけないのですか?」
会場が凍りついた。
Siggy NowakによるPixabayからの画像
福祉の現場ではしばらく前から社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)という用語がブームとなっている。
社会的包摂(しゃかいてきほうせつ)あるいはソーシャル・インクルージョン(英: social inclusion)とは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方のこと。 社会的排除の反対の概念である。(ウィキペディア「社会的包摂」より抜粋)
ソルティも一人のマイノリティ(LGBT)として、また介護分野において福祉にたずさわる者として、このコンセプトには全面的に賛成であり、今回のコロナ感染者差別にみるような社会的排除は「もってのほか」と思っている。
が一方、心のどこかで、「個人が社会というものに(半ば強制的に)取り込まれなければならない」ということに息苦しさを覚えてしまう。
それが、行政が主導して用意する枠組みにしたがってのことなら、なおさらに。
“ワンチーム”とか“一岩となって”という晴れがましい掛け声にちょっと引いてしまうところがある。
単なるワガママ(自我の強さ)なのかもしれない。
近代個人主義の弊害なのかもしれない。
近代個人主義の弊害なのかもしれない。
ただ、この国は同調圧力が強く、「右へならえ」の傾向が多分にあるので、あんまり“ワンチーム化”しないほうがいいのではないかという思いがあるのだ。
たとえば、だれもが「一員として取り込まれる」先の“社会”がもし良からぬものであったら、一体だれがその“社会”の暴走に歯止めをかけるのであろう?
お隣り中国における個人の自由の制約のさまを見るがいい。
民主化への社会変革がどれだけ困難になってしまったかを見るがいい。
つまり、ひきこもりの社会参加を語るのであれば、その“社会”の質こそがまず問われなければならないと思うのである。
本書の中で、ソルティの琴線に触れた一節をちょっと長くなるが紹介したい。
神奈川県でひきこもり当事者や家族支援を行っている丸山康彦氏へのインタビューである。
1964年生まれの丸山氏は、28歳から7年間ひきこもっていた。
【なぜ人はひきこもるのでしょうか】当事者に直接会ったり、親御さんの相談を受けたりして感じるのは、ひきこもりは異常でも悪行でもなく、特有の心理状態による生きざまだといいうことです。一般の人は自宅と社会がセットで行ったり来たりできるのですが、ひきこもりの人の場合は自宅と社会の間が裂けていて、そこに生まれた「第三の世界」に心がある状態です。本人もどうしてそうなるのか分からないので、私は「無意識の指令」と呼んでいます。【無意識の指令とは】このままだと潰れてしまう、行き詰ってしまうということを予知して、本能的に自らを防御するということです。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがありましたが、あれは絶品なタイトルですね。まさに、自分を守るために逃避したというのがひきこもり状態なのかなと思います。【もう少し詳しく説明していただけますか】当事者がよく口にするのは「普通でありたい」という言葉です。何が普通かというのは時代によって違いますが、現代であれば学校や仕事に行くのが当たり前で、仕事というのは企業などに雇われて、歯車として働くということでしょう。しかし、昔は町に1人や2人はぶらぶらしている人がいて、居候という言葉も珍しくなかった。今はそういう人がはじかれやすい世の中です。大気汚染から公害病が生まれるように、時代の空気に苦しくなった人たちが、心が折れて、ひきこもり状態になるのではないでしょうか。
この言葉を読んでソルティの心にすぐさま浮かんだのは、一つは渥美清演じる寅さん、こと車寅次郎の姿であり、今一つは戦後日本から消えてしまったサンカと呼ばれた人々のことである。
日本には長いこと、国家の身分制度の外にいて一般庶民には蔑視されながらも、自然とともにたくましく生きる“化外の民”がいた。
いわゆるマージナル・マン。
彼らは百姓を代表とする常民(=定住の民)の周縁にあって、村から村、山から山、川から川、浜から浜へと漂泊する民であった。
ジブリ映画の『かぐや姫の物語』に出てくる竹取の翁や木地師の一家は、まさにそうした人々である。
このような制度の外にいて日本中を漂泊する人々の存在が、「既存の日常性を破る異化効果をもたらした」と文化人類学者の沖浦和光は述べている。
ひきこもりの存在を、こういった視点から見てみることも有意義なのではなかろうか。
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損