2020年中央公論社
1895年、オスカー・ワイルドは同性愛の罪で投獄された。
そのときに娑婆にいる16歳年下の愛人アルフレッド・ダグラスに宛てて綴った手紙が『獄中記』である。
ソルティは大学時代に岩波文庫の『獄中記』(阿部知二訳)を読んだが、内容は全く覚えておらず、読後の印象も残っていない。なにも残らなかったのだろう。
今回、英文学者宮崎かすみによる新たな訳で読み直してみたら、これがなんと滅茶、面白かった!
ワクワク、ドキドキの人間ドラマがそこにあった。
こんなに面白いものをなんで忘れることができたのだろう?
答えは、本書の編訳者まえがきに記されていた。
日本でこれまでに訳されて単行本として売られていた『獄中記』は、ワイルドの死後、友人であり著作権管理人でもあったロバート・ロスが編集し発表した『深淵より』(1905年)を底本とする「簡約版」だったのである。
それは、ワイルドが獄中で書いた大量の手紙のうち、「ダグラスに対する誹謗中傷にあたる部分を大幅に削除し、その他の文章も改変した」ものという。
いきおい残された部分は、獄中生活の苦難や悲惨、贅沢や不道徳を身上とする過去の生活に対する反省や悔悟、自らの受難をダブらせたイエス・キリスト論、ワイルドならではの芸術論が中心となる。
ワイルド研究者にとっては興味深く重要なものには違いなかろうが、一般読者にしてみれば、さして面白くはない。
いきおい残された部分は、獄中生活の苦難や悲惨、贅沢や不道徳を身上とする過去の生活に対する反省や悔悟、自らの受難をダブらせたイエス・キリスト論、ワイルドならではの芸術論が中心となる。
ワイルド研究者にとっては興味深く重要なものには違いなかろうが、一般読者にしてみれば、さして面白くはない。
とくに、『ドリアン・グレイの肖像』や『サロメ』や『ウィンダミア夫人の扇』といった、機知にあふれスキャンダラスかつ退廃美に輝くワイルドの作品を愛する者にとっては・・・・。
本書には、単行本としては初めて、ワイルドがダグラスに宛てた手紙の全文が訳し出されている。
ワイルドとダグラスの恋愛ドラマ、二人の“すったもんだ”の一部始終が描かれている。
そのうえに、裁判・逮捕・投獄の憂き目を見る以前のワイルドの輝かしき半生、二人の関係を巡る互いの家族の反発や非難、ダグラスの父クィーンズベリー侯爵との訴訟合戦、ロスを始めとするワイルドの友人たちの厚い友情、妻コンスタンスとの複雑な関係、そして刑期を終えたワイルドの辿ったその後の苦難の生と壮絶な死・・・・まさに「悲哀の道化師の物語」というサブタイトル通り、世紀末を生きた一人の芸術家のドラマチックでスキャンダラスな人生がいきいきと描き出されている。
あたかも、オスカー・ワイルドという巨大な重力と輝きを持つ恒星を中心に、彼の人生に関わった人間たちが衛星のごとく近づいては遠ざかる軌道を描き、互いに影響を及ぼし合いながら銀河を旅しているようである。
力作評伝にして、無類のエンターテインメントである。
一等の面白さは、「簡約版」ではほとんど触れられていないワイルドとダグラスの“すったもんだ”、「簡約版」からは読み取ることのできない二人の“奇態な関係”である。
と言っても、ホモセクシュアルといった点ではない。
性別や性的志向とはまったく関係なしに、二人の人間の恋愛模様、というか依存関係、というか桎梏、というか因縁――あたりが興味の中心となる。
アルフレッド・ダグラスは貴族の子弟であった。
それだけでも十分特別で、多少のワガママや浪費癖や常識の無さはむしろあって当然だろう。
が、それだけでは済まなかった。
ダグラスの祖父と兄は自殺しており、父親のクィーンズベリー侯爵は頑固な癇癪もちでダグラスとは終生憎み合った。
ワイルド亡き後に結婚してできたダグラスの息子は、統合失調症で生涯を病院で過ごしたという。
遺伝によるものか環境によるものかその両方なのかはともかく、ダグラスには精神上の負因があった。
ワイルドと出会った十代の時分から、すでに性格異常の一面をのぞかせていたのである。
ダグラスの性格を評するワイルドの言葉は、非常にきつい。
君の卑劣きわまりない動機、下卑た嗜欲、非常に俗っぽい情熱は、君の掟となった。それにより他人の人生をも常に従わせ、必要とあらばためらいもなく他人をその犠牲にすることを厭わぬ掟となったのだ。癇癪を起して醜態を演じれば自分の思い通りにできることを知ってから、ほとんど無意識だろうと思いたいが、君の狂気じみた激情の発作が激しさを増してゆくのは自然のなりゆきだった。君の性格のじつに致命的な欠点であるところの、想像力の完全なる欠如君の人生についての考え、君の哲学――君に哲学などというものを思考する頭があればの話だが――とは、君自身がしたことはすべて誰か他のものに支払わせるべき、というものだった。ぼくは金のことだけを言っているのではない。君の哲学を日々の生活に実際に適用したのは、責任の転嫁が及びうる全領域で、その言葉の真の意味においてであった。感情をコントロールする力が君に根本的に欠落しているのは、不機嫌に黙りこんで怒りを仄めかすような態度と同様、癲癇のように突然怒り狂いだす発作からも明らかだった。しかしながらぼくの過ちは、ぼくが君と別れなかったことではなく、あまりにも頻繁に別れたことである。ぼくの数えるところによれば、ぼくは、いつもきっかり三ヶ月ごとに君との交友に終止符を打っていたが、ぼくが別れを切り出すたびに君は、懇願やら電報やら手紙やら、君の友人による仲裁からぼくの友人の仲裁に至るその他様々な手段を使って、何とかぼくが君を許す気になるよう全身全力で努力した。(以上、ワイルドの手紙より抜粋)
上記の文章から、ダグラスという人間をどう見るだろうか?
ソルティは、境界性パーソナリティ障害の典型と見た。
二人の“奇態な関係”は、あたかも症例報告を読んでいるかのようで、ワイルドはダグラスの“ターゲット”となって完全に振り回されている。
そもそもワイルドが男色の罪で投獄されることになったのも、元はと言えば、父クィーンズベリー侯爵を憎むダグラスがワイルドをそそのかし、侯爵を名誉棄損で訴えるよう強く求めたからであった。
ワイルドはいつものようにダグラスに根負けし、侯爵を提訴する。
が、逆に侯爵から男色の罪で訴えられる羽目となる。
が、逆に侯爵から男色の罪で訴えられる羽目となる。
証拠はいともたやすく集められ、ワイルドは有罪となった。
つまるところ、クィーンズベリー父子の近親憎悪のとばっちりを受けたのである。
つまるところ、クィーンズベリー父子の近親憎悪のとばっちりを受けたのである。
ひとたび境界性パーソナリティ障害の“ターゲット”にされると、気力と精力を完膚なきまで奪われ生活を破壊されることが多い。(ある芸能人一家の次男に起きたケースが思い出されよう。彼は相手の女性と別れられるなら「引退してもいい」とまで言った)
境界性パーソナリティ障害の相手とのいびつにして不毛な関係を終わらせたいのであれば、関係を“立ち切る”しかない。
友人同士なら一定の距離を置いてつき合うことも可能だろうが、恋人同士なら完全に別れて居場所も連絡先も教えないことである。
中途半端はNGだ。
情けは禁物である。
相手ととことん付き合う覚悟と度量がない限り、お互いに傷つけあうだけになりかねない。
相手ととことん付き合う覚悟と度量がない限り、お互いに傷つけあうだけになりかねない。
獄中で冷静に二人の関係を見つめ直し、自らの愚かなまでのお人よしに気づいたワイルドは、もう二度とダグラスに近づくまいと決心する。
獄中生活を物心ともに支えてくれる忠実な友ロスへの手紙の中で、ダグラスについてこう書き記す。
彼のことを悪しき影響を及ぼす存在のように感じる。あわれな奴だ。彼と一緒にいると、ぼくがようやく解放されていると思っている地獄へとまた舞い戻ることになるだろう。彼とは二度と会いたくない。
二人が関係を断つことが最善と知っているロスをはじめとするワイルドの友人たちも、ワイルドとの間にできた子供の将来を心配するワイルドの妻も、息子の常軌を逸した振る舞いの矯正をとうにあきらめているダグラスの母親も、ワイルドの決心を喜び、安堵する。
ところが、2年の刑期を終え出所したワイルドは、性懲りもなく、ダグラスのもとに戻ってゆく。
「なんでまた・・・・!」
ロスら一同が怒り、あきれ返り、疲弊するのも無理はない。
ワイルドはロスへの手紙にこう記す。
ぼくがボウジー(ソルティ注:ダグラスの愛称)のもとに戻るのは心理的な必然なのだ。自己実現を求める情熱を伴った魂の内面云々については棚上げするにしても、世界がぼくにそうするように仕向けたのだ。ぼくは愛の気配のないところで生きてゆくことはできない。ぼくは愛し、愛されなくてはいられない。そのためにいかなる代価を払おうとも、だ。君と共に一生を過ごすこともできただろう。だが君には君でやるべきことがある。とても心の優しい君のことだからそうしたことをおざなりにもできないだろう。結局、君が僕に与えることのできたのは一週間の友人関係がせいぜいだった。
この手紙を読んだ時のロスの心情はいかばかりだったろうか?
想像するだに哀れだ。
つまるところ、ワイルドもまたダグラスに劣らぬほど、恩知らずで自己中心的な男なのである。
ダグラスに負けぬほどの逸脱者なのである。
ダグラスに対してと同様に、ワイルドに対しても、「普通の市民的人生」や「常識的ふるまい」を求めるほうがどだい無理な話なのであった。
一般に流布しているオスカー・ワイルドのイメージ――公の場での派手な衣装、奇抜なふるまい――を鑑みるに、現代精神医学の見地からすれば彼もまたパーソナリティ障害(=演技性パーソナリティ障害)と診断されるかもしれない。
だとしたら、二人はお神酒どっくりのようにお似合いだ。
運命の相手というべきか。

出所後、ワイルドは世間や妻や友人たちの目を逃れ、遠いナポリの地でダグラスと暮らし始める。
が、結局、金の切れ目が縁の切れ目、生活力のない二人はとたんに行き詰まってしまう。
元の木阿弥。
またしても決裂する二人。
ダグラスはイギリスに帰り、フランスに渡ったワイルドは梅毒にかかって安ホテルの一室で息を引き取った。
(ロスと来た日には、死の床にいるワイルドのもとを毎日のように訪れ、なにくれとなく世話を焼き、看取った。彼もまた“お人よし”というほかない。あるいは、それこそワイルドの芸術の魅力なのか?)
(ロスと来た日には、死の床にいるワイルドのもとを毎日のように訪れ、なにくれとなく世話を焼き、看取った。彼もまた“お人よし”というほかない。あるいは、それこそワイルドの芸術の魅力なのか?)
孤独な獄中における深い洞察の瞬間に、ワイルドは次のように書いている。
ぼくにとっては、君(ソルティ注:ダグラス)さえもが、恐ろしい出来事に恐ろしい帰結をもたらすよう、何か目に見えない秘密の力によって動かされている操り人形にすぎないと思う時がある、だが操り人形にも感情がある。自分たちが今演じているものに新しいプロットを持ち込み、定められた有為転変の結末を、自分の気まぐれや欲求に沿うよう捻じ曲げてしまうのだ。全き自由な状態にあること、と同時に法に完全に支配されてもいるというのは、我々がいついかなる時にも思い知る、人生における永遠のパラドックスである。
この文章は、栄光の頂点にいてダグラスと出会ったばかりのワイルドが書いた、最も有名な戯曲の中のセリフと不思議と響き合っている。
恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。(福田恆存訳『サロメ』、岩波文庫)
おすすめ度 : ★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損