2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)
自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値あるものと感じられなければ、どうなると思いますか? もし何かやったとしても、自分がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまうのですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。彼らは自分が何かをやっているふりをするだけで、本当は違うのだと感じてしまう。何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」。このことはとても重要です。(標題書P.26、ゴチックはソルティ付与)
この書を読むのは3回目である。
前2回はウェブ上に『自由への旅~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』のタイトルで無料公開されているものを、プリントアウトして読んだ。
その後、思いがけずも新潮社から出版されて、ハードカバー500ページを超える大著3200円(税別)にもかかわらず、思いがけずも読まれているようである。
タイトルの一部を「ウィパッサナー瞑想」から、流行りの「マインドフルネス瞑想」に変えたことが理由の一つであろう。
コロナ禍の今は、ソルティのような瞑想実践者にとって得難き好機である。
瞑想は、家で一人でできる金も手間もかからない暇つぶしで、体にも心にも良い。
とくに、コロナに関する報道で不安を煽られたり、生活上の変化でストレスがたまったり、先の見えない状況に鬱っぽくなったりという昨今、心を落ち着かせる瞑想のありがたさは高まるばかりである。
これが自由に外出できるとなると、ほかの娯楽や交流に惹かれて、家でじっと座ることが難しくなる。
自粛生活を強いられる今こそ、瞑想が進むチャンスなのだ。
マインドフルネス瞑想=ウィパッサナー瞑想を知り実践する人が少しでも増えるとしたら、それで人が仏教に触れるきっかけが生まれるとしたら、コロナ禍も決して悪いことばかりではない。
前回この書を紹介したとき、この書は「ウィパッサナー瞑想をやっている人にしか役に立たない」と書いた。
それは決して嘘でも大げさでも極論でもない。
本書の(著者ウ・ジョーティカ師の)目的は、ウィパッサナー瞑想を実践している人に対して、ウィパッサナー瞑想の概要を語り、瞑想をする上での具体的な注意点を伝え、瞑想が進むにつれ生じてくる智慧やスランプに関する見取り図を提供するところにある。
実際、本書のもとになったのは、オーストラリアのどこか静かな森の中で行われた瞑想合宿における講義録なのである。
俗っぽく言えば、マニュアル本である。
なので、将棋をやらない人にとって将棋のマニュアル本が役に立たないのと同様、ウィパッサナー瞑想をやらない人にとって本書は役に立たない。
しかしながら、ウ・ジョーティカ師の語りには、瞑想実践者や仏教徒でなくとも通用し、生きるうえで役に立つであろう箴言がたくさんある。
それは師が、瞑想と人生を深いところでリンクさせているからであり、その結びつきのありようを、指導を受ける者たちに包み隠さず呈示しているからである。
そういうことができるくらいの哲学性と洞察力と人生経験と言語力と博学と、もちろん瞑想体験と指導力とを兼ね備えているのが、ウ・ジョーティカ師なのである。
そういうわけで、3回目の通読となる今回は、本書を読んでソルティが感銘を受けた師の言葉の数々を紹介していきたいと思う。
冒頭の引用は、瞑想実践に入る前に必要な心の準備について、師が語っているくだり。
瞑想にそれなりの成果を望むなら、自尊心を持つことが大切だという趣旨である。
これはしかし、師も触れているように、人生のあらゆる面について言えることである。
自尊心の低い人は、何ごとにも満足いく結果を生み出すことができない。
「あなたが至れるのは自己評価の高さまで」という文句はソルティの胸に強く響いた。
ソルティは、ボランティアやNGOや介護の仕事などを通して、数十年来、対人支援の仕事に関わってきたが、つまるところ見えてきたのは、「人は自分を救えるレベルでしか他人を救えない」、「自分を癒せるレベルでしか他人を癒せない」、「自分を大切にするレベルでしか他人を大切にできない」という峻厳たる事実であった。
自己に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)の裏返しが、他人に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)であり、それはまた社会に対する評価(愛、自信、優しさ、ゆるし、肯定、満足)につながる。
他人や社会のために尽くすのは素晴らしいことだが、そこには自己に対する評価という壁(限界)が立ちはだかっていて、それを無理に超えて自己犠牲を払うことは、必ずしも良い結果を生まない。
一時的にはうまくいったように見えて、助けた相手から感謝されることがあったとしても、長いスパンで見たとき、必ずしも援助された当人のためにならなかった、というケースを結構目撃してきた。(GOTOキャンペーンのよう?)
それはおそらく、自分の壁を超えて無理をした分が、あとから揺り戻されるからだと思う。
他人や社会のために何か良いことをしたいと思ったときに、その動機の中に自己否定的なもの(たとえばトラウマやコンプレックスや怒りや憎しみや欲求不満といった)が含まれていると、知らずその否定的なものは外側(他人や社会)に投影され、転写されてしまう。
闘うべき相手を外側に作り出してしまう。
それは自分が作り出した幻なので、永遠に打ち倒せない敵となる。(キリスト教における悪魔のよう?)
また、自己否定がもとにある自己犠牲的支援は、その恩恵を受けた人の中に知らず罪悪感や負担や依存を生み出してしまうことになりかねない。
わかりやすい例を挙げる。介護保険のいいところは、介助者に給料が払われる仕組みが、介護される高齢者の心理的負担を減らすことにある。
家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?
家族でも恋人でもなく、なんの見返りもなさそうなのに、自分のうんちを処理してくれる相手に対し、あなたはどういう気持ちを抱くであろうか?
自分の問題を棚上げにして、自分の問題から逃避して、他人や社会のことにかまけても、うまくいかない。
まず隗より始めよ。
幸福は自分から。
ソルティは、それが、その昔インドで小乗仏教(とけなされた人たち)が発見した真理の一面だったのではないかと思うのである。
P.S. 補足するまでもないことだが、これは「人助けや社会運動はやるだけ無駄」という意味ではまったくない。