1961年新潮社より刊行

 第二部は、思春期に入った畑中家の次男・孝二を中心に描かれる。
 友情、初恋、失恋、勉学、社会や政治への関心の芽生えと疑問、将来への不安、一人旅、修学旅行、教師との関係、家族との関係、親類との交流・・・・等々、社会への入り口に立つ思春期の少年の初々しくも重苦しい心情が描かれていく。
 むろん、重苦しさの理由は部落差別にある。

 これまでは学校仲間や近隣の人たちから受けていた身の回りの差別が、「社会」という、より大きな正体の分からないものの中に強靭に覆しがたいものとして仕組まれていて、職業や恋愛や結婚や交友関係など今後の人生の様々なことにわたって暗い影を落としていくことが、だんだんと分かってくる。
 見聞を広めるほどに、過酷な現実に気づかされていく。
 “一般”の少年が抱く将来への希望や期待を、孝二はじめ部落の少年たちは共有することが叶わない。
 少年だけではない。
 少女もまた怯えている。自分が将来産み落とす子が「エタ」となることに。
 なんと痛ましいことだろう!

 夜の学校集会の最中、クラス一の美少女まちえに手を握られた孝二。
 「まちえは自分に気があるのか?」、それとも「ほかの誰かと間違えたのか?」
 恋を知った孝二はひとり煩悶とする。
 まちえの気持ちをたしかめたいけれど、その勇気のなかなか持てないのは、思春期や真面目な性格だけが理由ではない。
 同じ部落の親友である貞夫は、孝二に変わって真相を探る。
 すると、
 「エタは夜になると蛇のように肌が冷たくなるって大人が言うから、確かめようと思った」
というまちえの意図が明らかになる。
 最初は自分の胸の内に真相を秘めておこうと思っていた貞夫だったが、まちえに甘い幻想を抱き続ける孝二の姿にたまらなくなり、ついにすべてを打ち明ける。

貞夫 「まちえはあの夜、たしかに孝やんの手を握ったと里村にも言うとる。せやけどそれは畑中の手や無うて・・・・・。」
孝二 「エッタの手やってンな?」

 まちえが握ったのは「孝二の手」でなくて、「エタの手」だった。
 恋愛対象どころか、同じ人間と見られていなかったのである。

 差別の理不尽は、ひとりひとりの人間よりもカテゴリーが重視されてしまうところにある。
 小森孝二という一つの自由な精神が、「エタ」というカテゴリーに括られ埋没してしまう。
 「部落に生まれたこと」は小森孝二という人間の属性の一つに過ぎないはずなのに、逆に、「部落出身であること」によって小森孝二が類型化され、縛られ、社会の約束通りに扱われてしまう。
 しかも、「部落に生まれたこと」は人為的につくられた属性であって、たとえば、「黒人であること」、「新型コロナウイルスの感染者であること」、「LGBTであること」といったような、他のマジョリティと区別できるほどに明確な“違い”は存在しない。
 いわば、差別のためにつくられた差別である。 

 失恋ですら甘酸っぱい思い出になりうる思春期の恋が、こんな残酷な終わり方をするとは!
 ソルティが孝二の立場なら、「二度と人を好きになんかなるもんか!」と決意するのではなかろうか。

 孝二はこれからどうなるのだろう・・・・・?