2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

まさに「いま・ここ」で、生を深く、ありのままに見つめてください。
いまとここそのものには、物語はありません。
まさしく「いま・ここ」で起こっている何かについて、物語を作ることができますか?
「いま・ここ」に、物語は存在しないのです。
存在するのは、ただ生成消滅する諸感覚だけであり、無媒介の感覚だけなのです。
(標題書p.499)

 ソルティは本を読むのと映画を見るのが好きである。
 若い頃からそうだった。
 物語に毒されているのだ。
 日本人の読書離れ、映画離れが言われて久しいけれど、「じゃあ、ソルティのようには読書や映画鑑賞をしない人々が、物語から解放されているのか?」と言えば、そんなことはまったくない。
 親のしつけや学校教育から始まって、テレビ、新聞、雑誌、漫画、ゲーム、流行歌、街じゅうに溢れる広告、ネット上のコメント・・・・・物語は無辺に広がって、それらを無自覚に受け入れる人々を洗脳しまくっている。
 世界は物語であふれている。

 これが現代情報社会の宿痾と必ずしも言えないのは、未開社会の部族にも、たとえば神話や掟や風習という形でそれなりに物語は存在し、内部の人々を良くも悪くも縛りつけているからだ。
 たとえば、遺伝的弊害を回避するインセスト・タブー(近親姦禁忌)は“良い”物語であろうし、女性器切除は“悪い”物語と言える。
 違うのは、現代社会では物語の種類と量が膨大になって、人々がそれに毒される時間が増えてしまったことだろう。
 未開社会の人々が大自然という厳しい現実と日々向かい合わざるを得ないのにくらべ、自然を克服しつつある文明社会の人は、一日のほとんどを物語の中に生きられる。


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ComfreakによるPixabayからの画像


 物語とは何か?
 「いま・ここ」に存在しないファンタジーである。

 たとえば、恋愛ほど人が物語の毒にはまっているさまを示すものはなかろう。
 愛する人のちょっとした言葉やしぐさや眼差しを、いかに曲解し、大袈裟に受け取り、妄想たくましくして、一喜一憂することか。
 自分で勝手に相手との物語を作り上げ、浮かれたり、患ったり、有頂天になったり、思い悩んだり、落ち込んだりすることか。
 自分にとって都合の良い物語を信じ込んで相手に夢中になり、ふたを開けてみたらとんだ勘違い、事実とのグロテスクなまでの乖離に、「舌かんで死んじゃいたい!」と自らの愚かさを呪ったことのある人は、決して少なくないだろう。

 あるいは、男なら誰だって(と一括りにすると反発来そうだが)、マスターベーションにおける妄想を伴った快楽と、射精後に来る「いま・ここ」の現実(=3㏄の精液の処理)の落差を知らぬものはいないだろう。
 “賢者タイム”とはよく言ったものである。

 物語とは、別名、記憶であり、空想であり、妄想であり、追想であり、後悔であり、想像であり、幻想であり、解釈であり、予断であり、不安であり、忖度であり、ファンタジーであり・・・・・・。
 つまるところ、思考である。
 
 ある意味、人間と動物との違い、あるいは大人と幼児との違いは、「物語を持つか持たぬか」というところにある。
 動物は物語を持たない。常に「いま・ここ」に生きている。
 「いま・ここ」の感覚と本能に基づいて、食欲、生殖欲、睡眠欲、現実的な危険の回避に追われて生きている。
 幼児もまた物語を持たない。
 「泣いたカラスがすぐ笑った」という言葉が示す通り、瞬間瞬間の感覚と本能と気分だけにコントロールされて生きている。
 地球上に生息する何百万という生物の中で、幼児を除く人間だけが、「物語を持っている、その中を生きている」というのは、よく考えると空恐ろしいことである。

 いや、だから人間は素晴らしいのだ、万物の霊長なのだ。
 ――という意見もあろう。
 たしかに、物語には人を動機づけ、狩り立たせ、力づけ、勇気をあたえ、未知なるものへ挑戦させ、団結させ、感動させ、退屈を紛らわし、創造させ、生きる希望をもたらしてくれるパワーがある。オリンピックを例に挙げるまでもない。
 物語のない社会、物語のない人生ほど、無味乾燥なものはあるまい。
 一方、人と人とを切り離し、誤解させ、憎しみや恐れを生み、競わせ、差別や迫害や戦争のもとを生みだすのも物語である。
 宗教や主義や民族という物語が、どれだけ人類の歴史を残酷に彩ってきたことか!
 物語は諸刃の剣なのだ。

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 人類が長い進化の時を経て物語を持てるようになったのは、「時間」を持ったことと関係していよう。
 記憶と想像、つまり過去と未来を手に入れて、はじめて物語が生まれたのだ。
 それはきっと、火や言語の獲得と同様、我々の遠い祖先が厳しい環境の中で生き残るのに役立ったからこそ、人類の性質として備わったのだろう。
 言語と物語の誕生によって、世代から世代への情報伝達が容易になり、生き残るための知識が蓄えられたことは想像にかたくない。

 元来、生き残るために獲得された性質の一つであるはずの物語(形成能力)が、いつのまにか、人が「いま・ここ」の現実を生きることを阻む方向に働くようになり、人は物語に取り込まれ、過去と未来の中を生きるようになった。
 それは、ネットゲームの主人公(アバター)の活躍するドラマを、自らの人生と勘違いしているゲーマー青年と、架空を生きているという点では何ら変わるところがない。

 過去は、過ぎ去って、今はない。
 未来は、未だ来たらず、ここにない。
 現実にあるのは「いま・ここ」だけなのだ。

 マインドフルネスとは、瞬間瞬間の感覚に意識を置きつづけることで「いま・ここ」にあり続ける実践である。
 物語からの解放なのだ。

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 ソルティ自身のスタンスを言えば、物語に毒されていることは重々承知しているものの、それを100%拒絶するのも阿呆らしいと思っている。
 そもそも遺伝的あるいは後天的に植え付けられた物語(形成能力)をゼロにするなどできるべくもなく、社会生活を送って他人とコミュニケートする以上、物語を無視するなど不可能である。(それができるのは完璧なサイコパスだけだろう)
 と言って、もういい加減、ありもしないファンタジーにかまけて「いま・ここ」の生を取り逃し続けるのはごめんこうむる。

 物語とは適当につきあうのが良い。
 ブログで本や映画について書くのは、襲いかかる物語に無防備に身をさらして蹂躙されないよう、物語に対して免疫をつけるためのワクチン接種のようなもの。
 ――と自己韜晦をはかっている(苦笑)