2017年勁草書房
著者は1973年生まれの部落問題、家族社会学を専門とする研究者。
ここで言う「結婚差別」とは部落差別の一つで、部落出身者と部落外出身者とが結婚を望んだときに主として部落外出身者の親が反対することである。
本書の目的は、結婚差別問題が生じたときに、カップルと反対する親との間で、どのような対立や交渉や和解、あるいは決裂が生じるのかを描くことである。とくに、恋人たちがいかにしてその問題を解決していくのか、そのプロセスを丹念に記述することが本書の中心的な課題である。
同和地区指定を受けた部落の居住環境や教育水準は向上し、『部落地名総鑑』や興信所を利用した就職差別も表立って聞くことは少なくなった。
部落出身者と部落外出身者との恋愛や結婚も増えている。
差別落書きやインターネットにおける誹謗中傷など、劣等感の塊のような一部の人間が行う卑劣な行為は見られるものの、一般市民の差別意識が薄らいだのは間違いなかろう。
そんななかで「最後の越えがたい壁」と言われているのが、結婚差別なのである。
就職に関しては、企業や行政の取り組みや学校現場の同和教育を通じて、状況は大きく変化したが、結婚差別問題は、私的な領域の問題であり、直接的にアプローチすることが難しいこともあって、いまだ残された課題となっている。
本書には、実際に結婚差別を受けた経験のある人々や、結婚差別を受けたカップルをサポートした人々に対しておこなった聞き取り調査の分析結果が述べられている。
著者の齋藤が関西の人間であることもあって、取り上げられている多くが大阪の事例である。
こうした系統だった研究は珍しいのだそうだ。
読みながら、「いまだにこんな理不尽なことがあるのか!」という驚きが先立つ。
分析のもとになっている調査はいずれも2000年以降のものであり、聞き取り調査の対象となっているのは20~30代の人が多い。
つまり、平成時代に実際にあった結婚差別の事例が多く取り上げられている。
結婚に反対した彼らの親たちはまず間違いなく戦後生まれである。
なんつー、アタマの古さ・・・・。
当事者が語る滑稽なまでに理不尽な体験談に驚きあきれかえるばかり。
が、一方、ソルティはこの問題に関して何ごとかを言うべき資格を持たないように感じるのである。
一つには、ソルティは関東生まれ関東育ちで、親戚づき合いのほとんどないサラリーマン家庭の一員で、周囲もほぼ同様であった。
高校時代に一コマだけの同和教育でビデオを見た記憶はあるが、部落差別は遠い過去の話、遠い土地の話という認識しかなく、具体的な差別エピソードなり差別的言辞を身の回りで聞いたことがなかった。
社会人になってから、どうやら部落は西のほうに多いらしいと知るのだが、出張や旅行以外で西に行くことはほとんどなく、住んだこともない。
西の友人も少ないので、そういった話を聞く機会もなかった。
西の人とくに関西圏の人たちが、どのような“部落観”を持っているのか、日常生活の中で部落差別とどのように出会い、どのように感じ、どのように配慮し、普段どのような問題意識や口に出せない思い(本音)を持って暮らしているのか、よくわからないのである。
もちろん、関東にも部落は存在した(する)し、部落差別もあった(ある)のだが、ソルティの住んでいるあたりは人の出入りが激しく、街の区画も風景も年々様変わりしていくので、「家系・住所・職業」のいわゆる“三位一体”によって部落民を特定するなんてのは、まったくのナンセンスである。
そういったわけで、部落差別のある風土を肌身で感じた経験がないため、あたかも“別世界の出来事”のような感じがするのである。
今一つ、ゲイである自分にとって、結婚というのがやはり“別世界の出来事”である。
結婚という人生の選択肢を自分に適用したことがないので、結婚をめぐる事象に関心もなければ詳しくもない。
時代風潮として、この先日本でも同性婚がありうるかもしれないが、そうなってみると、果たしてそもそも自分が結婚したいのかどうか疑問である。
つまり、自分は「ゲイだから結婚しない」のではなく、「ゲイでなくとも結婚しない」タイプの人間ではなかろうかと思うのである。
結婚したい人の気持ち、結婚しなければと焦る人の気持ち、子供に結婚を望む親の気持ち、どれもよく分かるとは言い難い。
本書で語られているような結婚差別がどうして起こるのかと言うと、部落外出身者の親が娘や息子が部落出身者と結婚することを反対し、それに対して娘や息子がなんとか親に許してもらおうと説得を試みるから、そこに対立が生まれ、問題となるのである。
ソルティは、その過程を読んでいて歯がゆく思うのだ。
「成人同士の結婚に親の許可なんか要らないじゃん。さっさと入籍するなり同居するなり子供を作るなりして、既成事実を作ってしまえばいいのに・・・・」と。
しかるにそれでは納得できない当事者は多いらしく、どうしても親の理解と祝福がほしいようなのである。
著者はそれを「育ててくれた親に対する愛情と恩ゆえ」のように書いているけれど、裏を返せばそれは、自分が“親不孝者、薄情な子供”となってしまうこと、そう周囲に思われてしまうことに対する抵抗感からくるのではないか。
つまり、結婚差別問題の背景にあるのは、部落差別だけでなく、親子関係の有り様なのである。
このあたりの親子間の心の機微というのが、どちらかと言えば感情的に淡白な家庭に育ったソルティにはまた伺い知れないところである。(偏見かもしれないが、東より西のほうが浪花節的人間関係が濃い気がする)
つまり、結婚差別問題の背景にあるのは、部落差別だけでなく、親子関係の有り様なのである。
このあたりの親子間の心の機微というのが、どちらかと言えば感情的に淡白な家庭に育ったソルティにはまた伺い知れないところである。(偏見かもしれないが、東より西のほうが浪花節的人間関係が濃い気がする)
親と関係悪化することで生じる具体的な損失――たとえば、遺産相続とか育児サポートとかまさかのときの避難所とかの喪失――について残念に思うのは当然であり、これは十分理解できる。
しかし、好きな人との仲を引き裂かれて、その後ずっと親を怨み続けるくらいなら、多少の不便は覚悟のうえで親との関係を一時的に絶って、好きな人の胸に飛び込んだほうが後悔はないだろう。
この長寿社会、ほうっておいても老いてくれば親のほうから折れてくる可能性は高い。
そう思ってしまうソルティは、やはり打算的で身勝手で単純な個人主義者なのだろう。
ときに、ちょっと前ネットで、高視聴率のドラマをたくさん生み出してきた有名プロデューサーのインタビュー記事を読んでたら、「最近では枷がないから恋愛ドラマが成り立たない」と言っていた。
恋愛ドラマというものは、恋する二人の間に乗り越えがたい障壁があってこそ面白くなるし、視聴者も食いつくということだ。『ロミオとジュリエット』や岸恵子主演『君の名は』や『おっさんずラブ』を例に出すまでもない。
「そのとおりだな。もう視聴者の心を湧き立たせるような恋愛ドラマをつくるのは難しいだろうな」と思ったが、本書を読んで考えが変わった。
「ここに恋愛ドラマの宝庫があるじゃん!」
部落差別という“立派な”枷があり、愛しあう若い二人がいて、無理解な親や世間がいて、あたたかい支援者がいて、二人がめでたく結ばれるまでの或いは悲劇に終わるまでの紆余曲折があって、愛あり、悩みあり、告白あり、怒りあり、混乱あり、葛藤あり、逆境あり、諦めあり、闘いあり、慟哭あり、絶望あり、希望あり、それでも切れることない親子の絆あり、新しい命の誕生あり、成長あり・・・・。
この一冊から、どれだけ豊かな、熱い人間ドラマが生み出されることか。
最後に事例を一つ紹介する。
大阪の部落出身の30代女性Uさんの体験である。
Uさんは、短大時代にアルバイト先で、のちに夫となる人に出会った。彼は、八年にわたる交際期間のなかで、Uさんが部落出身であることに気づいていたようだが、お互いにそのことについて触れることはなかった。(中略)結婚式は、Uさんたちの住む大阪で行われた。夫の側からの親族の出席は、ほとんどなかった。夫の親戚には高齢者が多く、郷里から出てくるのは大変だからという理由であった。Uさんは、親戚が参列しないことを、特に不審に思わなかった。ところが、結婚後まもなく、夫の郷里の親戚に挨拶にいったとき、Uさんを驚かせる出来事が起こった。郷里の親戚が一同に料亭に待機しており、その場でいきなり披露宴が始まったのである。つまり、Uさんには何の相談もなく、夫の親族だけを集めた二度目の結婚式が準備されていたのである。
さらに驚いたことには、その後Uさんの義妹(夫の妹)が大阪で結婚式を挙げることになったとき、夫の親戚はバスを借り切って田舎から大挙してやってきたという。「高齢で郷里から出てくるのが大変」というのは嘘だったのである。Uさんが問い詰めると、夫は最初の結婚式の時に自分の親戚に招待状を出さなかったことを白状した。
酷い話である。
これから一生を共にする相手に、よくもこんな非情な仕打ちができるものだ。
こんな夫と離婚しないでいるUさんの度量というか忍耐力には驚かされる。
ソルティがUさんの立場だったら、途端に愛が冷めて、縁を切る。
やっぱり、結婚には向かないタチなのだろう。