2020年
光文社新書

 映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。

 本書の「はじめに」で書かれているこの文章。
 まさにこれこそがソルティが映画を見続けている大きな理由である。
 そのような一本の映画に出会うために、何十本という凡作や駄作や娯楽作を観ている。
 最近では、『ボーダー 二つの世界』がその一本であった。


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 著者の蓮實重彦は東京大学の総長まで務めたフランス文学者であるが、世間的には映画評論家として名が知られていよう。
 いまの小津安二郎人気のかなりの部分は、70~80年代のこの人の“小津推し”によるところが大きい。
 ソルティもかなり影響を受けた。
 というより白状すれば、ソルティの映画開眼は20代前半に蓮實の映画批評や映画評論集を読んだのがきっかけであった。
 ひところは蓮實が編集長をつとめていた季刊誌『リュミエール』を購読し、彼の最新の映画評や淀川長治、山田宏一らとの対談が載っていた中央公論社の『マリ・クレール』を毎月のように買っていた。
 人生に映画鑑賞という歓びをもたらしてくれた恩人として、ひそかに感謝している。

 この人の文章は、一つのセンテンスが長く、回りくどく、加えて翻訳調なので、一見とっつきにくいのである。
 が、慣れてしまうと、お経のようなリズムに乗って、どこに連れていかれるかわからないスリリングな旅をしているかのような心地がして、そのうち快感となってくる。
 たとえば、こんなふうだ。
 
 あれはいったいどういうおまじないなのかしらと、あまりに仕掛けが単純なのでかえってどこにどんなタネが隠されているのかわからなくなってしまう手品を前にしたときのように、なかば途方に暮れ、なかばだまされることの快感に浸りながら妻が怪訝な面持ちで首をかしげたのは、彼女が外人教師として出講しているある国立の女子大学が、翌週から夏休みに入るという最後の授業があった日の夕食後のことだ。
(ちくま文庫、『反=日本語論』より抜粋)

 しかるに本書は、蓮實自身の執筆というより、編集者による複数回のインタビューをまとめたものらしく、センテンスは短く、文意は明確で、非常に読みやすいものとなっている。
 映画を愛する一人でも多くの読者の目に供され、この世に映画開眼者を増やすという点で、この試みは賞賛すべきである。
 内容も、日本と海外の最新の見るべき映画作家の列挙から始まって、映画の誕生、ドキュメンタリー論、ヌーベル・バーグ論、キャメラや美術監督など裏方の仕事など、幅広い話題が取り上げられている。
 蓮實自身が出会った有名・無名の監督やキャメラマンとのエピソードや、あいかわらず歯に衣着せない一刀両断の映画&監督批評が面白い。

 当ブログでも明白なように、ソルティは昔の映画をよく観ている。
 が、これは決して懐古趣味ではない。
 昔の映画を観ることを通して実際に起こっているのは、「過去」との出会いではなく、「現在」との出会いなのである。

 繰り返しますが、「昔の映画」がよかったということではなくて、それはまさに映画の「現在」として素晴らしいのです。カラーではないから現代的ではない、画面が小さくてモノクロームだから現代的ではない、などということではなく、映画において重要なのは、いまその作品が見られている「現在」という瞬間なのです。映画監督たちは、その題材をどの程度自分のものにして、画面を現在の体験へと引き継いでいるかということが重要であるような気がします。

 映画開眼したばかりの20代の頃は思い及びもしなかったが、今になって思うに、つまるところ映画を観る体験とは、こちらの目や耳がフィルムと戯れている「いま、ここ」の瞬間へと存在を立ち帰らせる一種の魔術であり、物語と非・物語の狭間に生じる圧倒的な美の衝撃によって、この世に氾濫し人を洗脳せんとする物語の支配から、自らを解放する実践なのである。
 見るレッスン、それはマインドフルネス瞑想に近い。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損