1996年徳間書店
ネットのツイッターやコメントなんかを読んでいると、「人権」「平等」「民主主義」といった言葉が大嫌いな人たちが結構いることに気づく。大概がネトウヨと呼ばれる保守的・愛国的な思想の持ち主のよう。
人権も平等も民主主義も、ソルティもその一人である、権力とは無縁な庶民を守るものという思いがあるので、「一体彼らはなぜそれらを目の敵にするのだろう? 人権も平等も民主主義もない国に住みたいのだろうか?」という不思議があった。
彼らの思想のバックボーンはどのへんにあるのか調べてみよう、と図書館の蔵書検索してみたら、出てきたのがこの本であった。
著者の中川八洋(なかがわやつひろ)は1945年福岡県生まれの政治学者。国際政治学、英米系政治哲学および憲法思想、“皇位継承学”などを専門とし、筑波大学名誉教授の職にあるらしい。(ウィキペディア「中川八洋」参照)
日本最大の保守主義ナショナリスト団体と言われ、安倍政権を陰で支えていた(あるいは牛耳っていた)日本会議にも過去に関わっていたようである。
日本の保守陣営の代表的論客の一人と言ってもあながち間違いなかろう。
必ずしも中川の思想や主張が、ネトウヨをはじめとする他の保守派の人々の思想や主張を代表するものでも、代弁するものでも、合致するものでもないとは思うが、最も強靭な保守思想の論陣を張るものとして参考にしても良かろう。
まず、タイトルの意味。
中川が言う「正統の哲学」とはずばり、真正自由主義(conservation)である。
(真正)自由主義は、英国の政治史において明らかなように封建体制が漸進して発展したものであり、国家という歴史的な生成物を大切に保守するが、同時に国家の権力を制限することによる個人の自由を最尊重しこの自由を価値とする。つまり、自由を抑圧する全体主義を断固として排除する思想(主義)である。
中川はその代表例として、英国の保守党(とくにサッチャー政権)、米国の共和党(とくにレーガン政権)を上げている。日本の自民党は中曽根政権を例外として、この枠組みには入らないそうだ。
一方、「異端の思想」とはずばり、社会主義と共産主義である。この異端思想の持主(社会主義者、共産主義者)が標榜するキーワードが、「人権、平等、民主、進歩、変革」であって、これらの“危険な”概念の普及と妄信こそが国家を共産主義の最終的ゴールである全体主義(ファシズム)に導き、個人の自由は悉く剥奪される。
全体主義体制とは、民衆(人民)が、支配する独裁者(党)を「教祖」と崇拝し、それが放つ誇大妄想の巨大な嘘を「共有して」信仰する「信徒」となる国家体制である。そして、教祖(独裁者)を崇拝しない、その嘘を「共有」しない、その誇大妄想を狂信しない、すなわち「信徒」になることを拒否する国民については、テロルにより殺戮か強制重労働の刑罰の対象とする。このような宗教団体の修道院的な国家体制、それが全体主義の体制である。
中川は代表例として、フランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治、ロシア革命後のレーニン、スターリンによる共産ロシア、金日成以後の北朝鮮、ポル・ポト政権下のカンボジア、毛沢東以後の中国を上げている。
社会主義と共産主義、そこから移行する全体主義こそ、自由社会が闘うべき最大の敵であり、どうあっても叩き潰さなければならない悪であることが、縷々として説かれているのが本書なのである。
旧ソ連のポスター
サッチャーやレーガンや中曽根を「正統」とみなすかどうかはともかく、ソルティも社会主義や共産主義は好まない。ジョージ・オーウエルの小説『1984』やテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』に端的に描かれているように、全体主義は地獄の別名にほかならないと思う。
が、正直、中川の論には驚いた。
戦後の日本人が学校時代に歴史や倫理社会などで習い、一般常識として流布している知識やイメージを引っくり返すような内容なのである。
近代は人類の文明的発展を育んだ温室でもあったが、“野蛮の母胎”でもあった。なぜなら、近代はこの地上に地獄を創造する奇形の哲学をも出産した「母」でもあったからだ。
上記の地獄とは社会主義・共産主義・全体主義のことであり、奇形の哲学とはロックやルソーやモンテスキューやカントに代表される近代啓蒙思想のことである。中川は、全体主義に不可避的につながる社会主義や共産主義を生むのは、理性を重視する近代啓蒙思想であるとし、それを真っ向から否定する。そればかりか、理性主義の始祖ともいえる「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトさえも「無益にして有害」と弾劾する。
いわば、近代の否定である。
デカルトを称賛したり肯定的に捉えるのはその思想に不健全性と狂気の芽が潜んでいることであり、逆にこれを否定するものは思想の健康と人格の健全性が保たれていることを示す。ルソーは全体主義者であって自分が専制者・独裁者になりたいのである。そのために、そして一般通念上の(あるいは18世紀フランスの)法や美徳を根こそぎ破壊し消し去りたいのである。ルソーはそのような本心をひた隠して、この本心の最終目標に至る中間目標としての君主政体打倒のために、「嘘、嘘、嘘、・・・・・」を羅列して君主政体に悪罵をあらん限り投げつける。
中川が近代啓蒙思想のキーワードである「人権、平等、民主、進歩、変革」を毛嫌いするのも当然であろう。
日本や欧米をはじめ現代の先進諸国のほとんどは、こうした近代啓蒙思想を基盤として国家づくりをしており、国民も多かれ少なかれ、これらの概念なり思想なりを正当なものと思い、それに則って生活を送っている。
なので、近代を憎む中川は同時に現代をも憎んでいるわけである。デカルト登場以降の世界史にNOを突き付け、丸々3世紀を茶番とみなしているようなもので、筋金入りの反動には慄きすら覚える。
中川はなぜ理性主義を厭うのか。
文明社会とは、「人知(人間の理性)を超えたもの」に大きく依存しつつ発展しているものである。人間の知力(理性)の部分は、無(ゼロ)ではないがささやかであり限定されたものである。むしろ、人間とは、その本質において、高度に合理的であろうはずもなく、さほど賢明でもなく、むしろ極めて非合理的で誤りに陥りやすいものである。よって、文明の人間社会とは“斬新的な発展(改良、進化)”が期待されるのであって、「革命的な進歩」は万が一にもありえない。
国家の歴史と伝統と慣習とが大切に共有され、これに発する権威が敬されているとき、政治社会は全体主義に堕するのを防がれるが故に、伝統や慣習こそは自由を育み国民の自由を守る砦なのである。過去の祖先が築きあげた伝統と慣習とを相続し守成し、「平等」と「変革」のデモクラシーに抗するその叡智における「保守する精神」が、美と崇高な倫理に裏付けられた自由の原理の淵源である。
ここに中川の保守思想の根本がある。
過去の歴史と伝統と慣習とを一挙に破壊する行為であるフランス革命やロシア革命の意義を全否定する中川が「良し」とするのが、前近代の君主政体であり、封建制であり、貴族や宗教家が幅を利かせる階級社会、もしくはその遺風を残した現代英国のような階級社会に基づく立憲君主制となるのも当然の帰結である。
自由は、みずからの精神の高貴性を価値とする倫理でもある。“良心の自由”と言うのはその俗的な表現の一つである。だから、真正の自由あるいは徳ある自由は、“開かれた不平等”の封建体制もしくはその遺制が育まれているところのみに存在できる。
そもそも身分秩序という階級制度を、平等が「進歩」だとするドグマは、否定し排斥するが、伝統と権威が自由の砦であると再認識するならば、自由を価値とする思想においてこの伝統と権威が最も尊重されてそれらが活性的に機能する身分秩序のある政治体制も再評価されるべきであろう。
中川がその実現を願う正統なる政治体制とは、つまり、歴史と伝統に支えられた権威ある君主(国王、天皇)を頂点に戴き、世襲財産に裏付けられた伝統的な家系を持つ一部のエリート(貴族)らによって低劣愚昧なる大衆が訓導される、「民主・人権・平等・進歩・改革」を排する階級社会なのである。
そして、「民主・人権・平等・進歩・改革」といった概念が否定されなくてはならないのは、それが愚昧なる大衆に非現実的なユートピア幻想を抱かせ、“正統なる”国家の伝統や慣習を破壊させ、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織を消失させ、個人をアトム(原子)化し、結果として国家権力を増大させ、全体主義に堕するから――となる。
中川の文章は明晰かつ修辞が巧みで、読み手を非常に惹きつける。論旨も一応通っていて、説得力がある。有名な哲学者や思想家の著作からの引用が多く、持論をアカデミックに理論づける手腕も見事。しかも、学術論文には珍しい主観的・情熱的な筆致で、読む者を扇動する力が備わっている。
大学時代に中川の授業を取っていたら、ソルティも強く影響され、「自分はこれまで間違った歴史認識を押し付けられていた!」と覚醒し、学校教育に憤りを感じ、右翼に走っていたかもしれない。
実際、本書には中川オリジナルの思想ではないとしても、「なるほどなあ」と思うような穿った言葉も数々あった。
人間も社会も、過去をひきずり過去を背負って存在しうる。また、いずれも根源的には過去の産物であり過去から生成されたものであるから、それらを過去と切断し分離することは決してできない。歴史において生成されたものは、歴史なしにはその生命を息づくことはできない。科学技術あるいは物質的な文明と異なって、そもそも人間に「進化」などありえない。・・・・(中略)・・・・。況んや、個人であるときの人間より知能も思考も大幅低下する「群衆」が「進化」することなどありえるはずがない。ダーウィン主義の思想的弊害は大きい。(※ソルティ注:中川はダーウィンの進化論も「思想(ドグマ)であって、まだ科学とはなってない」とする)ユートピアは、その文学を見ても哲学から生じた共産体制の現実を見ても、人間の人格を破棄(破壊)することによって生じる未来社会であり、そこでは人間のもつべき温かい血は人間から抜きとられている。人間の倫理が消えて道徳のない未来であり、人間自身が物になってしまう未来である。そもそも未来を夢想して現在を最善に生きようとしない人間など倫理喪失の無頼の徒であって、かくも即物的な人生しかできないものが建設する未来社会が即物的以外でありえるはずがない。「社会」で処理されるべきものまですべて国家の強制でその解決や要求の充足を求めようとすることは、いやが応でも国家権力の拡張と肥大化をもたらし、かくして国家は両刃の剣となって国民を襲うものとなる。
最後の引用などは、介護の現場で働くソルティも日々、懸念するところである。
介護保険の導入は増加する一方の要介護高齢者を支えるために必須なものであったのは指摘するまでもないことだが、それはまた、家族や自治組織や宗教団体や企業といったいわゆる中間組織の衰退を促進するリスク、すなわち地域で高齢者を支える力を弱めてしまうリスクと裏腹にあることは否めない。
要介護高齢者は介護保険によって国家に直に管理されることになり、国の政策ひとつによって受けられる介護や生活の質が決まってくる、すなわち国に命綱が握られて個人の自由が制限されてしまう。国が描く「理想的な要介護高齢者像=一所懸命リハビリし社会参加し自立した生活を送る」を目指して頑張らないと、税金泥棒と目されてしまう。(もちろん、介護保険を使わないという選択肢はある。が、金持ちにしかできない選択だろう)
閑話休題。
ソルティは歴史にも哲学にも政治学にも詳しくなく、本書で中川が引用している思想家の著書もほとんど読んでいないので、中川がその思想家の主張を正しく解釈し適切に引用しているのかどうかがわからない。中川の解釈や引用が適切であるとしても、思想家の主張自体が正しいかどうかの判断がつかない。なので、中川の主張の是非なり正否なりを判定することはできかねる。
できるのは、中川八洋という人物の思想の核(アイデンティティ)をなしているものの推察くらいである。
次の四点を読み取ることができる。
- 社会主義、共産主義、全体主義、そして民主主義への憎悪
- 大衆への侮蔑と嫌悪、あるいはエリート主義(=部分除外的性悪説)
- 変化への嫌悪
- 今の日本への嫌悪、あるいは日本国憲法への嫌悪
とりわけ目立つのは、2番の大衆への侮蔑と嫌悪である。
「大衆」は政治に関する真偽を識別する能力をもっていない。みずから熟考することもないし推論や批判の精神ももっていない。真理や真実への関心がなく、嘘でも幻想でも「誤謬でも魅力があるのならば、神のように崇めようとする」。実際に、いかなる国家であれ、その国民は、①(法秩序と道徳に従いうる)文明的人間、②(それが未熟な)反文明的人間、③(それがまったく欠けている)野蛮的(野獣的)人間、そして④(野獣以下の)犯罪者など、の四階級で構成されている。
むろん、このように大衆を侮蔑・愚弄する中川自身は、①の文明的人間であり、生まれついてのエリートであり、いわゆる“上級国民”なのであろう。少なくとも、そう自覚しているに違いない。
なんとなく、かつてクラスで集団いじめを受けていた優等生のトラウマ&報復のような匂いがしないでもない・・・・。
中川の主張に反論こそできないが、「じゃあ、これはどうなの?」と不審に思った点を三つほど挙げる。
まず、社会主義や共産主義が全体主義(ファシズム)に結びつく可能性が高いことは理論的にも納得するし、現実世界においても北朝鮮や中国のケ-スで証明されている。
だが、「逆もまた真なり」と言えるだろうか?
全体主義を招くのは社会主義や共産主義だけであろうか?
ファシズムの代名詞と言っても良い戦前のナチスドイツ、そして軍国主義の大日本帝国。どちらも共産主義とは関係ない。むしろ、共産主義者を徹底的に弾圧したのではなかったか。
ソルティは全体主義とは特定の主義ではなく形態のことだと思う。一人のカリスマ性ある独裁者と、一見輝かしく見えるが実現性に欠ける高邁なる目標と、それに洗脳されて(あるいは恐怖から)盲従する大衆と、暴力的な排除と選別による統制と、共通の外敵と・・・。それらが揃ったところに全体主義は誕生する。つまり、右も左も関係ない。
中川もこの矛盾をどこかで感じていたらしい。こんな理屈をこねている。
S・ノイマンの指摘どおり、大正時代の「大衆デモクラシー」が、1929年のウォール街の株の暴落に始まる大恐慌以来大きく流入し始めた社会主義・共産主義思想と合体したとき、それは1940年の「新体制」という名の日本型全体主義へとヒドラのごとく成長していったのである。
これはもう牽強付会というよりはトンデモ領域であろう。
中川はほかの著書(PHP研究所発行『近衛文麿の戦争責任』2010年)で、もっとはっきりと、「近衛文麿がコミュニストだった」とか「ソ連のスパイに、日本の中枢がハイジャックされてた」とか「陸軍の中枢は共産主義者が大半を占めていた」とか述べているらしい。
どうあっても、共産主義=全体主義を貫きたいのである。
二つ目に、中川が近代啓蒙思想の誤謬と害毒を縷々として説き、それに煽られて勃発したフランス革命やロシア革命をこきおろすとき、その根拠にあるのはデカルト以来の理性主義、すなわちノーベル経済学賞をとったフリードリッヒ・ハイオク(1899-1992)言うところの「設計主義的合理主義」に対する批判である。
ハイエクの言う「設計主義的合理主義」とは、たとえれば、荒野にまったく新しい巨大都市を設計し建設するように、政治社会や経済社会をある人間の「理性」(知力)によって合目的的につくっていけばこれらの社会はより確実に「進歩」し、より「完全」なものになるとする思想(主義、教義)のことである。この「理性主義」の信奉者が権力を掌握するや、その結果は「進歩」でもなく「完全」でもなく、フランス革命やロシア革命が証明(実験)したように、ただ野蛮で暗黒の社会に反転する。
単純化すると、これまでの成り行きを尊重して流れのままに社会を漸次的に改良するのが正しいのであって、これまでの流れを断ち切って一から設計図を引くような急激な改革はもってのほか、ということである。
しかしながら、ここでソルティは引っかかるのである。
近代啓蒙主義は突如としてこの世に現れたのだろうか?
旧約聖書のモーゼが天から十戒を授けられたように、デカルトやロックやルソーはどっかから啓示を受けて、何もないところから各々の思想を造り上げたのだろうか?
そして、近代啓蒙思想がフランス革命やロシア革命を引き起こす重要な因となったのは事実であるとしても、その思想の力だけであたかもマッチで油紙に火をつけるように人為的に民衆を焚き付け、王政打倒に向けて動かすなど果たして可能だったであろうか?
ソルティは、歴史は小さいところでは人為も働くであろうが、全般に必然だと思うのである。近代啓蒙思想が起こったのも、ルイ王朝の王侯貴族や宗教者の腐敗と凄絶なる貧困に堪えかねた民衆が暴動を起こしたのも、それが革命に結び付いたのも、必然と思うのである。絶対王政と封建制度のもとで虐げられてきた民衆の怒りが革命のエネルギーになったのであって、それなくしては、いくらブルジョアジーの指導者が口を酸っぱくして啓蒙思想を説いたところで、クーデターは成功すまい。そして、王権神授説により神聖化されてきた国王に歯向かうという、“神をも恐れぬ大それた行為”をなさんとするときに民衆が必要とした護符(言い訳)、それが近代啓蒙思想だったのではなかろうか。
仏教の因縁や縁起を持ち出すまでもなく、原因と理由と条件があるから結果が生じる。なにもないところから現象が生じることはない。
歴史もまた然り。
歴史もまた然り。
進化論における突然変異よろしく、これまでの漸次的流れを断ち切ってまったく新しい思想が突如として出現しそれに無知な民衆が乗せられた――なんていうのは、映画『2001年宇宙の旅』でモノリスに触れた猿が一気にヒトに進化したというのと同じくらい、荒唐無稽な寓話としか思えない。
中川自身がいみじくも述べている通り、「人間も社会も根源的には過去の産物であり過去から生成されたもの」なのであるから、ロックやルソーやカントやマルクスの思想さえ、それが如何に目新しく過激に見えようとも、過去の歴史の中からそれなりの必然性をもって生まれたものである。
すべては起こるべくして起こる。
三つ目に、中川が封建体制や身分秩序ある階級社会を是とすることができるのは、先に書いたように、自身がエリート階級に属すると信じて疑わないからであろう。
たとえば中川が、女性であったり、被差別部落に生まれたり、ゲイであったり、障害者であったり、貧困家庭に生まれ育ったり、黒人奴隷であったり、在日朝鮮人であったり、アイヌであったり、すなわちマイノリティであっても、同じことが言えるのだろうか?
自らの既得権に立脚してエリート意識を振りかざすのは一種の「選民思想」であって、まさにそれこそはナチスやオウム真理教の例を見るまでもなく、ファシズムの胚芽なのではあるまいか。
P.S. 中川八洋氏の最近の発言および動向は、「中川八洋ゼミ講義」というサイトで確認することができます。
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損