2006年原著刊行
2016年新潮社(魚川祐司訳)

 今日では多くの人々が、とくに西洋では、あなたが忙しくしていないと、何か問題があるんじゃないかと言ってきます。
 彼らの考えるところでは、
「なんと、君は何もしていないのか? 週末には何をしてるんだい?」
「いやいや! 何もしていないよ。ただ家にいるだけさ」
「ええ! 何もしなかっただって? ただ家にいた? 何か問題があったんだね」
 何の問題もありません。
 彼らはただ狂ったようにあちらこちらへと走り回っていて、あなたはそうでないというだけです。
 あなたは正気で、彼らが狂っているのですが、彼らはあなたが狂っていると思うのです。


 ご多分に漏れず、コロナ禍になってから “おうち”時間が増えたソルティであるが、じゃあ“おうち”で一体何をしているのか?――と言えば、ほぼ読書と映画鑑賞とブログ執筆とプールと散歩と瞑想である。
 コロナ前より減ったのは、クラシックコンサートや落語や美術館に行くこと、山登り、ボランティア、友人との会食あたりだろうか。ボランティアは人と関わるものなので、感染予防の観点からNGである。
 こうやって対外的活動が縮小され一年以上たって思うのは、「行かなきゃ行かないで別にどうってことない」ってことだ。失った娯楽や活動に対して欲求不満が高じるなんてことはなかった。

 若い頃は休日に家にいるなんて我慢ならなかった。晴れた日はとくに。用を作っては、あるいは用がなくても、街に出かけたものだ。
 五十を超えた今では、街に行くのが億劫に感じる。コロナ感染のリスクがなくても、人混みや喧騒には足を踏み入れたくない。体力や精力の減退が一つの因であるのは間違いなかろう。ちなみにソルティにとっての「街」とは、都内のことである。
 月2回は行っていた山登りもまた、今やそれほどの熱を身内に感じない。一昨年に四国歩き遍路を結願してから、憑き物が落ちたようにアウトドア志向あるいは徘徊癖が希薄になった。もっとも、足の骨折の影響も大きいが・・・。
 
 仕事以外の多くの娯楽や活動は、つまるところ、「やりたくてやっている」、「やらずにはいられない」というよりは、「時間をつぶすため」あるいは「気晴らしのため」にやっているのだ。
 自分にとって、それがないと本当に参ってしまうのは、おそらく、読書と瞑想と何らかの運動だけであろう。(ソルティは“塀の中”を快適に過ごせるかもしれない。独房に限るが・・・)

 若い頃は外の世界に「何か」を求めていて、そしてその「何か」が手に入らなくて焦燥に駆られていたものだが、だんだんと外の世界には本当に“自分”が満足できるものはないんだと思うようになった。
 というより、“自分”というものは決して満足しないシステムなんだと知るようになった。

 歳を取ること、そして今回のコロナ禍、いずれも真に必要なものを明らかにしてくれるチャンスである。


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S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像