2004年原著刊行
2005年岩波書店より邦訳発行
2021年岩波現代文庫(訳・下條信輔、安納令奈)

 ベンジャミン・リベット(1916-2007)はアメリカの生理学者、医師。
 彼の主著である本書には、パラダイムを一新し、我々の世界観・人間観を根底から覆すような衝撃の科学的発見が記されている。
 邦訳発行からしばらくの間は、彼の名前やその発見内容がメディアに取り上げられ、かなり話題になったのを覚えているが、ここ最近はあまり見聞きしなくなった。
 といって、彼の発見が事実として世間に認められ、常識として定着したからではあるまい。
 いまだにリベットの名は科学や哲学に関心ある人の間ではともかく、世間的には知られていないと思うし、その発見の意味するところを他人に語れる人も多くないと思われる。

 察するに、リベットの発見した内容があまりに突飛すぎて、我々の実感とそぐわないものであることが一因としてあるのだろう。

「単なる仮説だろう?」
「トンデモ科学者の発言なんじゃないの?」
「実験そのものにおかしなところがあるに決まっている!」

 そしてまた、その発見内容が人類にとって好ましくないもの・聞きたくないもの(いわゆる「不都合な真実」)であり、まかり間違えば倫理を破壊しかねないものであるところも、話題に乗りにくい原因なのではあるまいか。
 実際、リベットが本書で記している発見とそれが引き出す究極の結論を鵜呑みにした人は「モラルに反する行動をとりやすい」――ということを示した実験結果もあるそうだ。

 究極の結論とは、我々の自由意志の全否定であり、運命決定論である。


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 この本でリベットは、大きく分けて三つの画期的なことを述べています。
 その第一は、感覚が脳で「知覚」されるのに時間がかかるということ、にもかかわらずその遅れを遡り、補うメカニズムを脳が備えているということです。
 第二は、自由で自発的な意志決定といえども、それに先立つ脳神経活動があるということ。このことは一見決定論に加担し人間の自由を奪うようにみえます。そこでリベットは、みずからの発見から自由意志を救い出すためにかなりの紙幅を割いています。
 そして最後が、脳神経活動の空間的な場(リベットがCMFと呼ぶもの)が意識を紡ぎ出しているという仮説でした。(「訳者あとがき」より引用)


 我々が何かに「気づく(アウェアネスがある)」とは、四六時中無意識に受けている膨大な情報の中から特定のものが意識に上がることを言うわけだが、意識に上がるためにはある条件があって、それは「脳内で一定の条件を満たした神経活動が約0.5秒間続かなければならない」――というのが第一の発見である。
 つまり、感覚で何らかの情報を受け取った時点からそれを自覚するまで、少なくとも0.5秒の遅延が生じる。

 自覚したものごとは、それに先立つおよそ0.5秒前にすでに起きたことなのです。私たち人間は、実際の今、この瞬間を意識していません。いつも、少しだけ遅れるのです。

 精神世界でよく「今、ここ」に意識を置いて生きることの大切さが唱えられるけれど、実を言えば、意識のある限り、我々は「今」に生きることができない、常に0.5秒後の世界を生きているのだ。

 でもまあ、これは今さら驚くほどのことではない。
 たとえば、「今」夜空に見えている星が地球から8億光年離れているとしたら、我々が実際に見ているのはその星が8億年前に発した光である。
 もしかしたら、その星は4億年前に消滅して、「今」はないのかもしれない。
 それと同じ類いの話である。


星の爆発

 
 重要なのは二つ目の発見である。
 S・M・コスリンによる「序文」から引用する。

 リベットは人々に、彼らが選んだ任意の時間に手首を動かすことを求めた。実験の参加者は、時間を動かす点をみて、手首を曲げようとした正確な瞬間(に点がどこにあったか)を心に留めておくように求められた。彼らは実際に運動を始める約200ミリ秒前に意図を持ったと報告した。リベットはまた、脳内の「準備電位」を計測している。これは(運動の制御にかかわる)補足運動野からの活動記録によって明らかにされた。この準備電位は実際の行為の開始におよそ550ミリ秒も先立って生じる。したがって、運動を生み出す脳内現象は、実験の参加者当人が決定を下したことに気づくよりも約330ミリ秒前には起こっているということになる。

 すなわち、ふつう我々は、「①まず意志決定があって、②それから行為につながる脳内の段取りがいろいろあって、③最後に脳からの指令によって行為が現れる」と何の疑いもなく思っているけれど、実験結果が示したのはそれとは違って、「①脳内の段取りがスタートし、②その次に意志決定し、③最後に行為が現れる」というものであったのだ。
 行為は意志に先立つ。
 別の言い方をすれば、我々は無意識が決定した行為を、「自分の意志で行った」と勘違いしながら生きている。

 本書には、実験の詳細な方法や過程、結果とそれについての評価、結果から引き出されるリベット自身の解釈、そしてリベットの発表に対して湧き起こった様々な反論についての反駁が記されている。(このあたりの記述は文系のソルティには正直理解が難しかった)
 リベットは言う。

 自発的に活動しようとする意図または願望に被験者自身が気づくよりもずっと前に、脳は自発的なプロセスを無意識に始動します。この結果は、自由意志の性質をどのように考えるかについてと、個人が追う責任と罪にまつわる問題に、まぎれもなく深い影響を与えます。

 すべての行為が無意識の決定によるというのなら、我々は事前にプラグラミングされた通りに動くロボットのようなものである。
 生まれたときから運命はすでに決まっている。
 であるのなら、この世で罪を犯すことも事前にプログラムに書かれているのだから、それについて責任を問われるのは理不尽ということになる。
 これが、この発見が倫理上の問題を引き起こしかねないという意味合いである。


ロボット



 リベットの発見は、運命決定論者や「心的現象はすべて脳神経の問題に還元できる」という決定論的唯物主義者にとって力強い論拠となり、その持論や研究を後押しする流れを作ったことが、訳者の下條信輔による解説で触れられている。(当ブログでも取り上げた前野隆司の受動意識仮説はその流れの一つであろう)
 世間的には一見忘れ去られているように見えても、脳科学や意識研究の先端においては今や本流となっている知見(作業仮設)なのであった。
 生物学、生物工学を専門とする下條自身もまた、こう言っている。

 私自身の立場は「自由意志は、真正のイリュージョン」というものだ。この「真正」にポイントがあり、「自由意志はリアルで実体がある。ただし、他の知覚・認知と同等の身分で」というのと、ほぼ同じ主張だ。


 ただし、本家本元たるリベット自身は最初の引用に見るように、「みずからの発見から自由意志を救い出す」方向性を選び取った。
 究極の運命決定論に与さなかったのである。

 意識を伴う自由意志は、人間の自由で自発的な行為を起動しません。ですが、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御できます。行為を(実行に至るまで)推し進めることもできるし、行為が起こらないよう拒否もできます。

 すなわち、「①脳内の段取りがスタートし(0.5秒前)、②その次に意志決定し(0.2秒前)、③最後に行為が現れる(0秒時点)」という流れにおいて、無意識の領分である①の段階には介入できないが、意識の領分である②の段階において「拒否権」を発動できる。
 無意識が決定したことにNOを言うのが、我々の自由意志の主たる役割という。
 究極の運命決定論との違いは、プログラムは事前に決定されてはいるものの、それに従わないことを選択できる0.5秒内の自由裁量が与えられているってことだろう。
 そこを逃したら、我々はロボットのように自動的に生きるほかない。

 ただし、リベットの“良心的な”救い出しの理論は、不整合が指摘されている。
 無意識が決定したことにNOを言う、すなわち「拒否する」という意志自体もまた、先行する無意識の決定に0.5秒遅れて発動されている可能性があるではないか?――というものだ。
 つまり、「拒否する」こと自体を0.7秒前に無意識が決めているのではないか?
 であれば、結局、決定論と変わりない。
 リベットは、「意識を伴う拒否には、先行する無意識プロセスは必要ないし、あるいはその直接的な結果でもない」と言っているが、それは実験による検証を経た事実ではなく、希望的観測に近いとみなされている。

脳みそ


 
 ソルティのなによりの関心は、リベットの発見と見解が原始仏教の言説と重なるところである。
 無意識による行為の決定と運命支配の様相は、あたかも業(カルマ)や因縁について語っているように思われる。
 つまり、原因と条件があって結果が生じる。私の意志もまた原因と条件があって勝手に生じている。すべては起こるべくして起こっている
 また、リベットがここで言う自由意志とは原始仏教の五蘊(色・受・想・行・識)の中の「行」(サンカーラ)に相当すると思うのだが、ブッダはまさに五蘊は無常であり無我であり、自由意志は幻想(イリュージョン)に過ぎないと説いたのであった。
 無明から始まる十二因縁がただ連続して生起消滅し、果てしない過去から果てしない未来へと苦の連鎖すなわち輪廻転生が続いているのが我々の生(と死)であって、その流れのどこにも「私」と言えるものは実体として存在しない。
 そこに気づかないから輪廻転生は終わらない、欲望と衝動に突き動かされてありのままの真実を見ないから無明から抜けられない、そう説いたのである。
 そして、輪廻の苦しみから抜け出る唯一の方法は、「気づき(念)」すなわちアウェアネスを育てて輪廻の輪に楔を打ち込むことであり、それがヴィパッサナ瞑想である。
 気づきによって無意識の罠(=プログラミングされた生)から抜けること、それが解脱であろう。


知恵の輪


 最終章でリベットは、ルネ・デカルトとの架空対談を設定している。
 デカルトは言うまでもなく、「心と体は別物」という二元論説の生みの親にして、「我思う、ゆえに我あり」の近代的自我の発見者と目されている。
 この対談によって、リベットの発見や見解が近代哲学においてどう位置づけられるかが措定されるとともに、「自己や魂や自由意志のいかなる感情もイリュージョンである」とする決定論的唯物主義者とは微妙に距離を置くリベット自身の世界観(あるいは宗教観)も明らかにされる。
 面白い趣向である。

 だが、リベットはここでブッダとこそ対談すべきであった。
 おそらくリベットは原始仏教を知らなかったのだろう。知っていたらデカルトでなくブッダを対談相手に選んだはずである。
 さすれば、おのれが発見し辿りついた見解が、2000年以上も前にすでにブッダによって明らかにされ理路整然と説かれていることに驚愕し、即座に三宝帰依したに違いない。

 現代の脳科学者や意識研究者たる者、原始仏教の経典を紐解かずに研究し発言することは、恥をかきたくないのならば、控えたいところである。


サードゥ、サードゥ、サードゥ


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おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
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★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損