2020年
108分

 今から半世紀以上前の1969年(昭和44年)5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリー。
 TBSが録画保存していたフィルムをもとに、スタッフによる注釈や三島をよく知る作家や学者などによる解説、そして実際に討論会に参加していた元学生(今や70代の爺サマ)によるコメントを加えて編集したものである。
 ナレーターを東出昌大がつとめている。

 この討論に先立つ4ヶ月前、学生らによって占拠された東大安田講堂は機動隊の突入によって陥落した。東大闘争は収束したが、1972年の連合赤軍事件にはまだ間があり、共産主義革命を夢見る学生たちの機運は高まる一方であった。
 一方、この討論の約1年後、三島由紀夫は自決した。私設の防衛組織である楯の会を前年10月に結成し、自衛隊体験入隊で鍛え、憲法改正のための自衛隊クーデーターをすでに目論んでいた頃と思われる。
 反体制・反権力を掲げる血気盛んな1000人の左翼の若者が待ち構える中に、天皇崇拝を大っぴらに口にする右翼作家が単身乗り込んでいき、言葉による対決を行なったのである。


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壇上の三島と学生たち(しかし男ばかり・・・)


 たいへん面白かった。
 108分、半ば興奮しながら夢中になって視聴した。 
 そのことがまず意外であった。
 というのも、この映画(DVD)の存在をしばらく前から知ってはいたものの、観るのにためらいを感じていたからである。
 ソルティは、石原慎太郎の三島評を俟つまでもなく、マッチョになってからの、あるいは政治的発言を盛んに口にするようになってからの三島由紀夫の言動になんとなく嘘くさいものを感じていて、天皇の復権を目指し国軍創設を呼びかけるナショナリスティックな物言いには反感というより茶番に近い滑稽さを見ていた。軍服を着て日本刀を振り回し、自分ではない何者かになろうとする三島の姿に痛々しさしか感じられなかった。
 『仮面の告白』、『金閣寺』、『サド侯爵夫人』など国際級の作品をいくつも発表した人が、何者かに憑りつかれたように訳のわからないことを口にし、自ら進んで道化を演じ、これまで築き上げた業績と栄光を反故にするかのように破滅へ向かって突き進んでいく。
 三島の古くからの親しい友人であり霊能者でもある美輪明宏は、晩年の三島を霊視して、「2・2・6事件の将校が憑いている」と言ったそうだが、そうしたオカルティックな理由を持ち出すのがもっとも納得いくような三島の狂気的行動と凄惨な死に様に、近寄りがたいものを感じていたのはソルティだけではあるまい。(むろん、三島自決事件のときソルティはまだ小学生だったので、後年、三島文学に触れるようになってからの印象である)


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市ヶ谷自衛隊駐屯地での三島

 
 今回、怖いもの見たさでDVDを借りて、自決一年前の三島の姿を直視したら、ずいぶん印象が変わった。
 討論の最初のうちこそ、何者かに憑りつかれたような不自然な表情の硬さと、どこを見ているのか分からない虚ろな眼光がちょっと不気味であった。
 が、討論が進むにつれ、どうやらそれは緊張であったらしいことが分かってくる。
 そりゃあ、単身敵地に乗り込むのだから、緊張して当り前だ。

 頭のいい学生(なんたって東大生!)との討論の内容や、どっちが優勢か、あるいはどっちが正しいか、最終的にどっちが勝ったか、なんてことはソルティにはさほど興味がない。(あまりに話が観念的過ぎて付いていけない部分もあった)
 また、三島がしばしば口にする「殺し合う」とか、自らの将来を予告するような「自決する」とか、あるいは非合法の暴力の肯定といった過激な言辞にもさほど惹かれなかった。
 ソルティにとってこの討論会の一番の魅力、この記録映像の最大の価値は、三島由紀夫という男の対人姿勢を垣間見たところにある。
 別の言葉で言えばマナーである。
 主義でも思想でもルックスでも論客ぶりでも断じてなかった。

 三島は講堂をぎっしり埋めている、あるいは三島と共に壇上にいる学生たちに対して、終始、真摯に向き合い、敬意を持って遇し、相手の話に耳を傾け、対話において誠実で率直であろうと務め、ユーモアにあふれている。
 まず、この三島のユーモアというのが意外であった。
 ユーモアがあるというのは精神が硬直化していない一つの証拠であるから、三島が「何者かに憑りつかれて」我を無くしているというのは、少なくともこの段階ではどうやら当たっていない。
 『仮面の告白』による華々しい文壇登場の時からまったく変わらず、自らを相対化できる視点を携えているのである。

 また、三島の言葉は決して頭でっかちではない。己の実感から離れた思想や主義を振りかざしているのではない。
 実社会経験に乏しい学生たちはどうしても頭でっかちになりがち、つまり、行動が思想や主義によって牽引される傾向にある。(その最悪の結果が連合赤軍事件であろう)
 その思想や主義もまた、生活者の実感が伴わない借り物めいた感じが漂う。そもそもどのような条件付けのもとに自らがそういった思想や主義を抱くようになったかという点ついて自覚に乏しい。歴史的存在としての自分についておおむね鈍感である。(だからこそ、若者は今までにない新しいものが生み出せるのだが)
 たとえば、被差別部落に生まれ貧困と不平等に苦しんできた大正時代の若者がロシア革命を知って共産主義に希望を抱くような具合には、戦後生まれのインテリで資本主義社会において「勝ち組」を約束された東大生には、共産主義革命に対する切なる願望も内からの止むにやまれぬ慫慂もありはしないだろう。現実的な飢えや痛みから生み出され選ばれた思想ではない。

 一方、三島の皇国思想の背景には、まず日本文化や歴史についての深い造詣と理解があり、国や天皇のために戦い散っていった同朋を見送りながら戦前戦中を生き抜いてしまった事実があり、戦後民主主義の建設過程で神から人間になってしまった天皇や鬼畜米英から親米へと豹変した日本人を複雑な思いで見ながらも、その後に訪れた豊かさを「時代の寵児」として誰よりも享受してきた自分に対するアンビバレントな思いがあり、加えて三島独特の大儀の死と美とが結合したエロチシズムへの希求があった。
 三島の内的洞察力はこうした自らの条件付けと思想や欲望の成り立ちを当然自覚していたはずである。その自覚があればこそ、「自分は日本人として生まれ、日本人として死ぬことに満足している」というセリフが出てくる。
 天皇制や資本主義はもとより、日本人という国籍からの離脱さえ夢見る学生たちには、到底理解できる相手ではないだろう。
 ここには三島由紀夫=平岡公威という一人の男が背負ってきた重み(業)がある。そして、「歴史的存在としての人間を無視できるのか」という学生たちへの、戦後日本人への問いかけがある。

 三島がそうした条件付けからの解放を望まないのは、おそらく本映画の中でフランス文学者の内田樹が解説している通り、「国家の運命と個人の運命とがシンクロしていた時代に存在したある種の陶酔」を求めているからであろうし、作家の平野啓一郎が指摘している通り、「生き残った者の疚しさと苦悩」ゆえであろう。
 遺作となった『豊饒の海』で三島は仏教の世界に足を踏み入れている。
 あるいは三島には、すべての条件付けから解放されるべく、瀬戸内寂聴(やはり本作に登場している)のように出家して、悟りに向けて修行するという選択肢だってあったのかもしれない。であったなら、自殺することはなかった。
 が、それを決して許さないもの――自分一人だけが国家や文化や制度から解放されて生きのびることを良しとしないもの、あるいはダンディズム?――が彼の中には厳然とあったのだろう。


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Pete 😀によるPixabayからの画像


 さて、マナーの話に戻る。
 三島がマナーを持って学生たちと向き合っているのは、彼らを「他者」として認めているからにほかならない。
 この他者をめぐる問題が、この討論会の、あるいはこの映画の、あるいは三島由紀夫自身の最大にして究極のテーマであったのだと思う。
 最初の10分間スピーチの中で、三島は次のようなことを述べている。

・私は安心している人間が嫌いだ。
・私は当面の秩序を守るために妥協するという姿勢が嫌いだ。
・私は知性(知識・思想)でもって人の上に君臨するのが嫌いだ。

 これは、「自己充足して他者と向き合おうとしない人間が嫌いだ」ということを言外に匂わせている。
 そのあと、司会を務める制服姿の学生(木村修)は三島への最初の質問として、奇しくも「自己と他者」の問題を投げかける。正直、彼の質問自体は要領を得ない稚拙なものであるが、他者という言葉を“いの一番”にぶつけたセンスは素晴らしい。(たぶん、横で構えていた三島もビックリしたのではないか)

 三島はおおむねこんなことを答える。

 エロチシズムにおいて、他者とは「どうにでも変形されうるようなオブジェ」であるべきで、意志を持った主体ではない。
 一方、(真の)他者とは、自分の思うようにはならない意志を持った主体であり、それとの関係は対立・決闘あるのみで、全然エロチックなものではない。
 自分はこれまで、エロチシズムにおける他者を作品のテーマとして描いてきたけれど、もうそれには飽きた。
 私は(真の)他者がほしくなった。
 だから、君たちが標榜する共産主義を敵(=他者)と決めた。

 この告解は衝撃的である。
 三島文学の大きな特徴は「他者との関係の不可能性」にあった。
 関係が不可能なところにエロチシズムが存在したのである。
 それは、川端文学や谷崎文学にも、いや三島以前のほぼすべての男性作家について言えるところであろう。
 基本、男のエロスは自己充足的=オナニズムだからである。
 三島はそれとは決別して、他者を探す旅に出たのだ。
 エロスでも暴力でもなく、言葉によって他者と出会う可能性を探ったのだ。
 共産主義を志向する若者たちを、自らの意志を持つ「他者」と認めればこそ、対等の立場で敬意を持って対話しようとしたのである。
 それが三島のマナーの持つ意味の一つである。


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壇上の三島と進行役の木村青年


 英国の推理作家G.K.チェスタトンのブラウン神父シリーズの中に『共産主義者の犯罪』という一編がある。
 共産主義による社会転覆と神の抹殺を標榜する名門大学の教授が、大学関係者が集う夕食会の席で、伝統破壊者らしい言辞を披露して同僚の不興を買いながらも、その一方、大学特製の葡萄酒を煙草を吸いながら口にすることはついにできなかった、という話である。
 思想や主義はいくらでも標榜できるし転向もできるけれど、生まれ育ちの中で身に着けたマナーは容易には変えられないという逆説。
 本映画で確認できる三島の品格あるマナーこそ、まさに後年筋肉と共に身に着けた思想や主義以前に、人気作家になるはるか以前に、三島由紀夫ならぬ平岡公威が平岡家の伝統の中で身につけた文化であると同時に、ほとんど無意識と言っていいくらい深いところで三島を規定している気質、すなわち人柄というものである。
 「主義主張が異なる相手に対しても、対話する際には敬意と忍耐をもって遇せよ」という三島の中の定言命令である。
 その品格は1000人の学生の目にはたしてどのように映ったのか。

 上記の木村修が発言の途中で三島のことを思わず、「三島センセイ」と言ってしまい、すぐに自らの権威盲従的失言に気づき、苦し紛れの弁明をする場面がある。
 木村の生真面目な愛されキャラのおかげで会場も三島も爆笑、一気に会場の雰囲気は和らぐ。
 おそらく、木村は思想や主義を超えたところにある三島由紀夫の人柄を敏感に察し、それに感化されたのだろう。 
 いまや70代になった木村がインタビューで当時を振り返るシーンがある。
 それによると、討論会が終わって木村が三島にお礼の電話を入れたところ、その場で楯の会に誘われたという。敵からの勧誘である。
 非常に面白い、かつ意味深なエピソードである。
 三島が実は、個人の思想や主義なんてさほど重要とは思っていない、人と人とが「肝胆相照らす」には思想や主義なんかより大切なことがある、とでも言っているかのようだ。

 尚武を気取る三島は口にしなかったけれど、他者との関係には対立・決闘だけでなく、互いを理解しようとする意志すなわち愛だってある。
 900番教室の学生に対する三島のマナーの根底にあるのは愛なのだと思う。
 この映画が感動的なのはそれゆえだ。

 それにしても、半世紀前には絵空事でナンセンスとしか思えなかった三島の言辞――天皇制をめぐる問題と憲法改正――が、今日焦眉の政治的テーマとなっているのは驚くばかりである。
 そして、900番教室を埋め尽くし口角泡飛ばして政治や社会を語った東大生が、いまやテレビのクイズ番組でアイドルのように扱われているのを見るにつけ、ソルティもそこに生きてきた日本の50年という歳月を奇妙なものに思う。


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現在の東京大学駒場の900番教室



おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損