2002年幻冬舎
収録作品初出
『太陽の季節』1955年
『処刑の部屋』1956年
『完全な遊戯』1957年
『乾いた花』1958年
『ファンキー・ジャンプ』1959年
石原慎太郎が20代の時に書いた5編が収められている。
自身「あとがき」で記しているとおり、石原個人の青春メモリアルであり、かつ戦後日本のある一時代(昭和30年代)の先鋭的な若者の風俗をとらえた小説、いわゆる青春風俗小説と言ってよかろう。
その意味では、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠広『ぼくって何?』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、田中康夫『なんとなくクリスタル』などと同列に論じることができる。
ただし、青春小説と言ったときに多くの人が抱くようなイメージ――恋、友情、ライバル、挑戦、挫折、裏切り、喧嘩、孤独、絶望、見栄、反抗、葛藤、初体験、自己陶酔、成長e.t.c.――はここにはない。爽やかさとも甘酸っぱさともほろ苦さとも縁遠い。
石原の描く青春は、「酒と女と喧嘩と退屈しのぎの愚行」で埋められた青年たちの自堕落な日々の記録であり、愛なきSEXと暴力と無法のはびこるダークで無軌道な世界である。
それは後年の女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989)の少年たちや、 90年代渋谷界隈を闊歩したチーマ、それに昨今話題の半グレあたりの手口や行動を先取っているかのようで、本書はあたかも戦後の青少年犯罪の見本市あるいは先触れのようである。
当時、石原の小説が世間の注視と非難の的になったのも頷ける。
サド侯爵ほどの確信犯、快楽犯ではないものの、反倫理・非ヒューマニズム・不健全に貫かれているのは確か。
よくもまあ都民はこんなダークな小説を書く人間を都知事に選んだものよ(笑)!
一方で、これらの作品に書かれていること=主人公の青年たちがやっていることは、作品発表のほんの十数年前まで日本軍が植民地や戦地でやっていたことと変わらない。一部の兵士たちは徒党を組んで「愛なきSEXと暴力と無法」に勤しんでいたのである。
戦争が終わって新憲法が作られて日本がどうにか貧しさを脱し、まがりなりにも平和で文化的な国になったからこそ、ここに描かれる青年たちの蛮行が悪目立ちしたのである。
なので、太平洋戦争時の戦地における父親たちの蛮行が、戦後の平和な日本社会においてリアルな戦場を知らない子供世代によって繰り返されただけ、と見ることも可能だ。
その観点から読むと、青春小説という枠を超えて、「男」という性の持っている生物的かつ社会的欠陥、実存的悲劇に触れている作品群と言うこともできよう。
障子に怒張したペニスを突き刺すことでしか己のアイデンティティを保てない種族の悲哀である。
石原文学とは、明らかにマッチョイズムの世界である。

石原文学で描かれる「男」たちは、反倫理・反社会・反文化的な行為の中に己のアイデンティティを見出そうとする。
それがあたかも既存の体制すなわち大人たちが作った社会や法や文化や様々な決まりごとからの解放を希求する自由の戦士のような印象を彼らに付与し、言葉や理屈よりも行動を尊ぶ非インテリ性とあいまって、若い読者たちに「カッコイイ」と思われたのではなかったろうか。
若者というのはいつだって既存の文化や体制を嫌うものだから。
行動に飢えているものだから。
支配からの卒業を叫ぶものだから。
人間が生きてるってのは考えることか動くことかどっちが先だ? 俺は思うんだがお前に一番欠けてるものは勇気だと思うな。もっと思いきって何かに徹底してみな、そうすりゃ顔色もも少しは良くなるぜ」(『処刑の部屋』主人公克己のセリフ)
ただし、克己ら主人公たちが反倫理・反社会・反文化的な生き方をするのは、別段、権威に対するレジスタンス(抵抗)とか革新思想にかぶれてのことではない。そこは、石原の子供世代にあたる全共闘の青年たちとは微妙に異なる。
克己らはただ「自分がやりたいことをやっている」だけだ。
少なくとも自分ではそう思っている。
抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。(『処刑の部屋』冒頭の詞書)「俺はな、手前がなぜそんなことをやるのか考えてみるなんざまっぴらだ。やりたいからやるんじゃねえか。それだけで沢山だ。妙な理屈で自分を誤魔化すのは下らないと思うな。自分のやったことがどんな意味があるかなんざ今止まって考えたって出て来るもんじゃないぜ、やれるだけやりたいことをしてみてその内にわかって来るんだ」(『処刑の部屋』克己のセリフ)
反モラルを標榜するように見えて、実は克己らもまた自分なりのモラルを持っている。
それが「やりたいことをやる」だ。
やりたいことをやったその先に何があるのか、何が見えてくるのか、石原はこれらの作品において何も語っていない。
が、三島由紀夫との対談における石原の言葉から察するに、それは「僕が本当に僕として生きていく自由」であろう。
僕が本当に僕として生きていく自由は「やりたいことをやる」中にこそある、というわけだ。
私は久し振りに、三年前、あの男を刺した直後に感じた、満たされた放心を体の内に感じていた。それは何であれ自分の肉体に繋がった仕事をやり遂げた後のあの心持良さだった。 少なくともその時、私たちにとって世界は可能なものだった。私は、自分という奴を生きるに足りるものに感じることが出来ていた。(『乾いた花』主人公・村木のモノローグ)
法も制度も世間も顧みることなく「やりたいことをやる」を貫けば、人は社会からドロップアウトしてアウトローになる。
だが、それで自由に近づいたかと言えば、おそらく否だろう。
「やりたいことをやる」とは、結局、本能や遺伝的気質や育ちによって条件づけられた“自分”を生きることにほかならず、理性や文化や法や世間という安全弁を解いて、より深いところで因縁に支配されるのを自らに許しただけなのである。
いわば幼児返りだ。
そう、石原文学の「男」たちに共通するもの、そして戦後の青少年の犯罪に共通する特質は「幼稚性」だと思う。
もはや明らかなことであるが、マチョイズムの特徴の一つは幼稚性にある。
収録されている5編のうち、『太陽の季節』と『処刑の部屋』には感心した。
表現に生硬さや紋切り型が見られる『太陽』よりも、『処刑』のほうが完成度は高いと思う。
他の3編は、売れっ子作家&スターになった石原が時間に追われて書き殴ったといった印象で、台本でも読んでいるようなスカスカ感だった。
『乾いた花』に関しては、舞台となる賭場独特のルールと雰囲気とが文章では表現しにくいことは別にしても、篠田正浩監督・加賀まりこ出演の映画のほうが数段すぐれている。
映画の出来が原作を上回った典型例と言える。
映画の出来が原作を上回った典型例と言える。
生物的・社会的失敗作としての「男」の存在のあり方を、自らを手がかりとしてもっと深く突きつめていたなら、石原慎太郎はきっと後世に残る文学者になったであろう。ちょうど映画界におけるクリント・イーストウッド監督のように。
彼にその勇気がなかったことが残念である。
おすすめ度 :★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損