1979年早川書房
2008年創元SF文庫
眉村卓と言えば、たびたび映像化されている『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』が有名であるが、映像作品はともかく小説は読んだことがなかった。
生粋の文系ゆえ、あまり良いSF小説の読者でないソルティは、昔から書店や図書館に行ってもSFよりもミステリーにばかり目が行ってしまう。
科学オンチということもあるが、SF小説はその性質上、最初の数十~数百ページは物語の舞台となる異世界(未来や地球以外の惑星など)の独特の気候風土や社会システムやルールについての説明に費やされてしまうことが多いので、ある程度の忍耐力が要求される。
よほど巧みな書き手でないと退屈してしまうのである。
そこが、派手な殺人場面と謎の提示によって冒頭から読者を惹きつけるミステリーに、SF小説が敵わないところである。
なので、上下巻970ページを超えるブ厚い本書を借りたのは、“なんとなく”気になったからである。
手に取って、眉村卓というビッグネームと上巻の裏表紙の紹介文(下記)に惹かれ、「たまにはSFでも読んでみるか」と思った。
植民星ラクザーンでは、人類と瓜二つの温和な先住民と地球人入植者とが平和裡に共存していた。だがその太陽が遠からず新星化する。惑星のすべての住民を、別の星に待避させよ――。空前ともいえるこの任務に、新任司政官マセ・PPKA4・ユキオは、ロボット官僚を率いてとりかかるが・・・・。《司政官》シリーズの最高作にして眉村本格SFの最高峰。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞作。
もちろん、司政官シリーズなんてのがあるとは知らなかった。
眉村卓が2019年11月に85歳で亡くなっていたのも知らなかった。
ましてや、この小説の内容や評判も聞いたことがなかった。
カバーイラストは加藤直之による
マセに与えられた期限は惑星の公転周期で5レーン(地球時間の約8年)。
その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
その間にラクザーンのすべての住民の戸籍を作り、空港の拡張工事を行い、宇宙船搭乗の順番を決め、空港までの移送手段を整え、移住に必要な経費を捻出しなければならない。
住民は家や仕事や財産を捨ててほぼ身一つで行くことになるのだから、新惑星に移住してからの当面の生活資金を政府で用意してやらなければならない。
そのためにはどうしても税の徴収によって国庫を潤しておく必要がある。
上位の連邦経営機構により緊急指揮権を付与されたマセは、絶大な権力を用いて、自らの立てた待避計画をロボット官僚群を駆使して遂行しようと決意する。
しかし、そうは問屋が卸さない。
移住を希望しない者、司政官の独裁を快く思わず反逆する者、逆に司政官の味方につき権力のおこぼれに預かろうとする者、税の徴収に反対し暴動を起こす者、機会に乗じて金儲けを企む者・・・・。
危機に際してさまざまな人間模様が浮かび上がるのは、このたびのコロナ禍同様である。
タイムリミットが設けられている点では本書はサスペンスである。
マセが、既得権益を有する有力団体や住民の中の抵抗勢力を抑えるために、あるいは移住のため少しでも多くの資金を得るために、知略を尽くし、さまざまな策を弄し駆け引きを行なう様は、政治小説のような面白さ。
暴動を起こした民衆を配下のロボットを使って制圧しようと苦心惨憺する場面は、戦闘パニックさながら。
移住を希望しない先住民の謎を探っていくくだりは一種のスピリチュアルミステリーの趣き。
もちろん、マセの頭脳や手足となるロボットの活躍ぶりこそはSF小説の独壇場である。
いろいろなジャンルの小説の要素がバランスよく盛り込まれた一級のエンターテインメントである。
40年以上前に書かれたSFなのに、科学性においてもIT的にもまったく古臭い感がなく、令和の今でも十分鑑賞に耐えるし、読み応えがある。
眉村卓の小説家としての力量に感嘆した。
最初のうち抵抗や不満を露わにしていた地球からの入植組が最終的には宇宙船に分乗し、新しい惑星に飛び立っていくのを傍目に、先住民は誰一人移住を希望しなかった。
新星化した太陽が焦土を焼き、灼熱地獄と化し、しまいに惑星自体が消失する事実を知ったうえで、ラクザーンに残り続けることを選択したのである。
先住民も助けたい、あるいは先住民の自殺行為に見える選択を理解できないマセは、説得を試みるが、彼らの意志は固い。
先住民は、いったい何を考えているのか?
なぜ自らの命を粗末にするのか?
温厚で礼儀正しく、あとからやってきた地球人とも共存できる“いい人”ばかりの彼らの本心はどこにあるのか?
この謎の解明が、本作の最大の鉤(フック)となって読者を引っ張っていく。
読み進めていくうちに次第にゾクゾクしたものを背筋に感じてくるのは、ほかでもない、この先住民がどうにもこうにも仏教徒のあるべき姿――それも大乗ではなく小乗の――を思わせるからである。
穏やかで感情的にならず、人と争わず、余計なお喋りもせず、「チュン」という敬称を持つ一握りの意識の高い者たちの指導のもと、今あるものに満足して昔ながらの暮らしを静かに送っている。
チュンの存在はまるで在家信者に対する出家者、あるいは悟りを開いた覚者のようである。
チュンはまた予知能力を持っていることが明らかにされる。
つまり先住民は、地球人が入植してラクザーンの支配者となることも、太陽が新星化してラクザーンが消滅することも、大昔から知っていたのである。
破滅を知りながら従容としてそれを受け入れる姿は運命論者のように見えるが、実は彼らにははるか昔から伝わる伝承があり、それこそがラクザーンからの待避を拒む一番の理由だったのである。(伝承の内容は詳らかにしないでおく)
ラクザーンから人類がどんどん去っていくのに呼応するように、というよりも太陽の新星化が進行するにつれ、先住民は意識の進化を速め、次々と悟りを開き、チュンになってゆく。
チュンになったのち、肉体から抜け出て、別の生命体となって宇宙意識と合一する。
このあたりもまた「悟りから解脱へ」の道を説く仏教的である。と同時に「梵我一如」を説くバラモン教的でもある。
実に先住民とは「精神的・瞑想的な存在として、思惟の世界を持つ者」であり、諦念に達しているがゆえに現世に拘泥することのない種族なのであった。
むろん、この逆座標に来るのがマセを始めとする人類であるのは言うまでもない。
人類は「物質的・科学的な力を駆使して空間的に勢力を広げる者」であり、自らの手で運命を変えることができると信じ、現世において夢や野望や欲望を追い求める種族である。
本作の一番の肝は、人類と先住民との対比を描いたところにある。
それはちょうど、未曽有の科学力とIT技術を使いこなす神のごとき未来の人類像――ユヴァル・ノア・ハラリ言うところのホモ・デウス――と、自己および自由意志の幻想性を悟り俗世間に見切りをつけた今一つの人類像――ソルティ名付けるところのホモ・ブッダ――との対比のようである。
司政官マセはロボット官僚を自らの手足のごとく自在に動かし、一時は独裁者として君臨する。
が、最後には、マセ自身もまた連邦経営機構という巨大な官僚組織の交換のきく歯車の一つに過ぎず、経営機構が事前に練り上げた「惑星移住計画」のシナリオ通りに動かされていた操り人形であったことに気づく。
令和時代の主人公なら、真実を知ってショックを受け、憤りや虚しさに襲われ、己れのこれまでの生き方や価値観を点検し直すところであろう。
が、何と言っても40年前の作品である。
日本は未だバブル知らずの昭和元禄真っただ中。
作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。
作者の眉村卓も昭和ヒトケタ生まれの男である。
マセは、会社に命を預けた昭和時代のモーレツ社員さながら、ふたたび組織に戻って司政官の職を続けてゆく決意をする。
この結末だけが時代遅れを、いや40年の時の流れを感じさせた。
それにしても、娯楽を求めて“なんとなく”手に取った本が、結局仏教へとつながっていく不思議。
なんだろな、これは?
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損