2018年(株)KADOKAWA
著者は1964年大阪生まれの映画監督。在日コリアン2世である。
朝鮮大学校は東京都小平市にある。
武蔵野美術大学(通称「ムサビ」)、創価学園(いわゆる「ガッカイ」)、白梅学園、津田塾大学、都立小平西高校などが集まる文教地区で、玉川上水の緑豊かな遊歩道が続く閑静な住宅地である。
最寄りは西武国分寺線の鷹の台駅。毎朝、小学生から中・高・大学生まで多くの学生たちが改札を抜けて、それぞれの学校へと向かう。
ただし、その中に朝鮮大学校の学生の姿はない。
全寮制だからである。
ここは民族教育の最高学府であり、全国の朝鮮高校からやって来た在日コリアンの若者たちが、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)を担う幹部となるべく、勉学や民族意識の確立に励んでいる。
文部科学省から大学としての認可は受けておらず、法律上は各種学校である。
本書は、80年代前半に大阪の朝鮮高校から朝鮮大学校へ入学した一人の女性、パク・ミヨンを主人公とした学園青春物語である。
むろん、ミヨンのモデルは若かりし日の著者ヤン・ヨンヒ自身であり、三人称のフィクションという形を取ってはいるが、書かれていることのかなりの部分――朝鮮大学校での授業や寮生活の様子、卒業旅行で訪れた北朝鮮での見聞など――は、著者の体験に基づいた事実と思われる。
ミヨンが朝鮮大学校に入学した一番の目的は、東京でたくさんの芝居や映画を観ること。将来は演劇の道に進むつもりなのである。
本書に登場する映画のタイトルや劇場名、劇団名は、同じ80年代の東京で『ぴあ』を片手に青春を過ごしたソルティの耳に懐かしく響くものばかりであった。
入学早々、六本木の俳優座に芝居を観に行って夜8時の門限破りをしてしまったミヨンは、生活指導員に呼び出され、厳しく注意される。
「ここは日本ではありません! 朝鮮大学校で生活している貴女は、共和国で、すなわち朝鮮民主主義人民共和国で生きているのだと自覚しなさい!」
比較的自由が享受できた大阪の朝鮮高校とは違って、朝鮮大学校は規則づくめで管理のきびしい、まるで中世のカトリック修道院のような場所であった。
修道院と違うのは、敬愛と信仰の対象となるのがイエス・キリストや聖母マリアではなくて、北朝鮮の最高指導者たる金日成(キム・イルスン)・金正日(キム・ジョンイル)親子であること。
朝は、「放送事故のような音量で」流される革命的行進曲と合唱団が歌う戦闘曲で起こされ、毎夜の政治学習の時間には金親子の著作集を読まなければならない。
そのあとに一日の自分の言動をルームメイトの前で振り返る“総括”が待っている
抜き打ちの持ち物チェックでは、倭風(日本的)や洋風の物を持っていないか徹底的に調べ上げられ、ミヨンの持っていた外国音楽のカセットや映画雑誌、バタイユの『エロティシズム』などは没収されてしまう。
外出できるのは週一回日曜日のみ。外出先と目的を書いた許可書を提出し、5人の管理者の印を受けなければならない。
外部の日本人との交流は制限され、とくに日本人男子との交際などもってのほか。
つまりは、まったくの洗脳教育機関である。
映画や演劇を愛するだけあって自由な感性の持ち主であるミヨンは、校風に馴染めず、事あるごとに反抗を重ね、お隣のムサビの男子学生との恋愛騒ぎを巻き起こし、問題児のレッテルを貼られてしまう。
卒業旅行では、幼い頃に北朝鮮に“帰国した”実の姉との数年ぶりの再会を心待ちにするも、当局の不興を買った姉夫婦は首都ピョンヤンから僻地に追放されていた。
持ち前の度胸と袖の下を使ってやっと姉のもとを訪れることができたミヨンは、その道中、貧しい祖国の悲惨な現実を知り、監視社会のもと自由が奪われた人々の絶望しきった暗い表情を見る。
ひたすら姉のことを心配するミヨンに向かって、姉は言う。
「アンタは私の分身やから。私の分も幸せになってくれな困るの! 組織や家族のためとかアホなこと言うたら私が許さへん。後悔せんように。わかった? 朝鮮で生きるのもキツいけど、この国背負わされて日本で生きるのも大変やと思うわ」
日本への帰国間近、ミヨンたち一行は思いがけずも金日成主席の姿を拝謁する機会を得る。
アフリカのどこかの国の大統領を迎える金主席を讃えるサクラとなるため、空港に召集されたのである。
アフリカのどこかの国の大統領を迎える金主席を讃えるサクラとなるため、空港に召集されたのである。
「民族の太陽」のおでましに、号泣しながら「万歳!」を叫ぶ教員や同級生たちの間にあって、ミヨンはひとり冷めている。
「これが本物のキム・イルソン・・・・」伝説のカリスマを目撃しているという事実よりも、集団心理に感染しない自分を発見した実感の方がスリリングだ。この人はこの国をどう思っているのだろう? この国の実情を知っているのか。部下たちはちゃんと報告するのだろうか。この国の現状にどれほど満足しているのだろうか。
Tomoyuki MizutaによるPixabayからの画像
本書に描かれているのは、30年以上前の朝鮮大学校の実態であり、いまの金正恩(キム・ジョンウン)主席の祖父にあたる金日成時代の北朝鮮である。
令和の現在、当時とはいろいろと違っていることだろう。
まず間違いなく状況は悪化しているに違いない。
本書の裏表紙に載っている朝鮮大学校の校舎の黒ずんだ外壁の写真を見れば、相当な経営難に陥っていることは推察できるし、入学する生徒も激減していると聞く。
コロナ禍のいま、北朝鮮の内情に至っては想像するだに怖ろしい。
世界中の誰だって、自ら望むことなく前もって定められた条件下に生まれ落ち、歴史に翻弄されながら、各々が属する国や民族や宗教や文化や社会制度や伝統に絡めとられ、かつ、そこにアイデンティティを見出しながら生きている。
日本人しかり、在日コリアンしかり、台湾人しかり・・・・。
アイデンティティとは“条件付け”にほかならない。
同じ日本に生まれ、同じ空気を吸いながら、在日コリアンの人々と日本人とではいかにバックグラウンドが異なることか。
見ている景色が違うことか。
アイデンティティの中味が異なることか・・・・。
仏教徒のソルティとしては、“条件付け”からの解放こそが最終的な自由への道と思ってはいるけれど、それは今現在自分や他人が大切にしているアイデンティティを軽視していいということには決してならない。
それは互いに尊重すべき、でき得る限り理解に努めるべきものであろう。
「自分たちは国籍なんて気にしないよ。君がナニジンだろうが関係ないよ」という、ムサビの恋人をはじめとする周囲の善意の日本人たちの言葉にミヨンが傷つくのは、それが(幸運にも)国籍を気にしなくてすむ立場にいる人間による“上から目線”のセリフだからだ。
セクシャルマイノリティの一人であるソルティも、「わざわざカミングアウトしなくたって実生活上の問題がなければ別にいいじゃん」という“決して差別者ではない”ヘテロの同僚の発言に、「それはそうだけど・・・・」とふっ切れない思いとともに口をつぐんだことがある。
その瞬間、自分(を含むセクシャルマイノリティ)という存在が「無きもの」とされたような気持ちがしたのである。
「多様性を受け入れる」というのは、「君が何であっても関係ないよ。差別しないよ」という表面的なものではなくて、「君が何であるか教えてくれ。自分は黙って聴くから」ということなのだろう。
朝鮮大学校は、ソルティが想像していた通りの、あるいはそれ以上の不自由で窮屈な怖ろしい世界であった。
しかるに、そこで学ぶ若者たちの皆が皆、洗脳されてしまうわけではないことが本書では証明されている。
おそらく、完全に洗脳されて金主席を神と仰ぎ、北朝鮮を理想の国と信じ込むのは一握りの“優秀な”学生だけであって、ほとんどの学生は教員や朝鮮総聯に目を付けられないよう外面は従順なふりをしつつ、それなりに楽しみを見つけながら、自己表現の手段を探しながら、したたかに生きているのだろう。
まあ、難しいことは抜きにしても、本書はとても面白い小説である。
「一人でも多くの人に読んでほしい」という言い回しは、たいていの場合、評者の誇張か独り善がりに過ぎないので、あまり口にしたくない。
が、本書に限っては「一人でも多くの日本人に読んでほしい」と素直に思った。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
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