2009年サンガ発行

 仏教の三蔵(三つの聖典・・・経蔵・律蔵・論蔵)のうち論蔵にあたるアビダンマを、テーラワーダ仏教の出家僧たるスマナサーラ長老が懇切丁寧に説いた、アビダンマ講義シリーズの一巻である。
 アビダンマはいわば、仏教哲学の集大成である。

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 本巻で取り上げられている「業(カルマ)と輪廻」こそは、仏教の言説の中でもっとも神秘的かつオカルチックで、非科学的・迷信的と断じられやすく、物議をかもす部分であろう。

 業と言えば「自業自得」という言葉がすぐに思い浮かぶが、どこか冷酷で断罪的なイメージが強い。
 元来は「自分で行った行為の結果が自分に返ってくる」というニュートラルな意味合いで、悪い行いだけでなく善い行いについても使われる言葉なのだが、残念ながら、「それみたことか!」、「自己責任!」、「言わんこっちゃない!」、「思い知れ!」といった否定的ニュアンスで使われることが多い。
 使い方を間違うといらぬ誤解を招き、人間関係にひびを入れたり、他人を傷つける結果になりやすい。
 とくに輪廻転生(生まれ変わり)と絡んで使われる場合、「前世で悪いことをしたから障害者として生まれた」とか、「いかなる理由があろうと、生んでくれた親を殺めたからには来世は地獄行き」といったように、本人に責任(の自覚)がないのに一方的に人を裁いて貶めたり、尊属殺人に対する重罰(つい最近まで日本では親を殺したら死刑が普通だった)を正当化する根拠のごとくみなされたりと、合理性と思いやりに満ちた概念とはとうてい言えまい。

 それに現実を見れば、「悪いことをしたら必ず悪い結果が跳ね返ってくる」なんて正義の鉄槌はむしろ少なくて、うまく立ち回る悪人こそが栄え、正直につましく生きている者が不当な仕打ちを受けるのが世の習いではないか。(だからこそ物語では正義の味方が渇望されるのだ)
 それに対する業論の理屈は、「いや、今生では結果が出なくとも来世か、その先のどこかの転生先で報いは必ずあるのだ」とか、「たしかにカルマは正しく働いているが、カルマがすぐに出るのを妨害するカルマというのもあるのだ」とか、結局どう結果が出ても巧みに言い逃れできる占い師のような都合のいい言説を振りかざす。
 ソルティは基本的に業論が嫌いであるし、業論を振り回す人も嫌いである。

 輪廻転生(生まれ変わり)もまた議論百出である。
 「自分の前世はなに?」、「今生での課題はなに?」、「私のソウルメイトは誰?」といったスピリチュアルでファンシーな世迷言を生み出し、それを利用した霊感商法まがいの詐欺も引き起こす。
 また、「生まれ変わりがあるとしたら、一体何が生まれ変わるのか? 永遠の魂か?」、「しかるに仏教では永続するものはないと言っている。無我と輪廻転生はどう両立できるのか?」といった数世紀にわたる難問も立ちはだかっている。
 だいたい今の日本では、社会生活の中で輪廻転生を口にする人間は、「あやしい人」、「オウム系? それともムー系?」と思われるのが関の山だろう。
 
ダライラマ
生まれ変わりと言えばこの人


 アビダンマでは、業と輪廻について緻密な論理でもって詳細に分析している。
 本書でのスマナサーラ長老の説明は非常にわかりやすいし、アビダンマの記述の矛盾や不明点を率直に指摘していて信頼が持てる。
 そして、講義が単なる知的な説明に終わらず、聴き手(読み手)に対する説法になっている。
 つまり、業システムや輪廻転生の“科学的”説明を礎に、そこに豊かにして有益なアドリブを付け加えて、聴き手(読み手)の心の成長に役立つ実践的なノウハウをも授けてくれる。
 そこが本書の最大の価値であり魅力であろう。

 そもそも、業や輪廻転生について思い悩むことはナンセンスである。
 科学的に立証され得ないし、「脅し」によって人心をコントロールし得る危険な(悪用されやすい)言説にもなり得る。
 前世の因業のせいにして今生をあきらめるのも、来世に望みを託して今生を投げやりに生きるのも、とうてい前向きな姿勢とは言えまい。 
 そもそも、来世で「どこに、何に」生まれ変わろうが、記憶がつながっていないかぎり、そこに生まれた「自分」は今生の「自分」とは関係ないのだから、考えても意味がない。
 与えられた生を一回こっきりのものとして、与えられた場で生きるほうが充実感は高かろう。(本書によると、餓鬼道すなわち霊界と地獄においては前世の記憶があるらしい)
 要は、今をしっかりと慈悲と智慧をもって生きることだ。
 業システムや生まれ変わりが本当にあるのならば、そのように生きることで来世の幸福は保証されるし、それらが実在しないとしても少なくとも今生において、「自分は何にも恥じない生き方をしている」と自信をもって明るく生きられる。
 生まれ変わりや業はあってもなくても関係ない。
 こういう考え方を仏教では「アパンナカ(無戯論)」と言っている。

 思うに、輪廻という概念において重要なのは、前世とか来世とか六道廻りとかソウルメイトといったことよりも、輪廻とは変化の謂いであり、諸行無常の様態を表しているという理解であろう。

 仏教が言う「生まれ変わり」とは、「この身体に生まれる最後の瞬間が終わったら、すぐ次に、なんの隙間もなく、同じ感覚で、次の心が生まれる。今も隙間なく心が生滅変化しているのだから、そのときも隙間なく、死んだ。そして次に、生まれた」ということです。

 本当は、死は、いつでもあるものです。いつでも、死ななければ新しいものは生まれないのです。我々が勉強したら、新しい知識が生まれるでしょう。それには、前の心が死ななければ、生まれるわけはないのです。身体が死ななければ、いくら運動しても健康にはならないのです。弱い身体の人が運動すると、その弱い身体がじわじわと死んでいって、強い身体が生まれてくるのです。だから、死ななければ、何も成り立ちません。「瞬間の死」ということが、一番大事なことなのです。
(本書より抜粋)

 瞬間瞬間、我々の心も、身体も、この世界も、生まれては死んでいる。死んでは生まれている。
 コンピュータのように、0(OFF)と1(ON)とを繰り返している。
 それがあまりにも速いので、そして我々は0(OFF)を認識することができないので、連続しているように(常にONばかり)見えるだけなのである。
 諸行無常とは、「桜の花はすぐに散って儚いねえ~」とか「驕る平家は久しからず」といった“もののあはれ”風な感慨とは別物である。

 いったいにONとOFFを繰り返す以外に、物が変化していく方法があるだろうか?
 たとえば、アジサイの花の色の変化をじっと観察する。
 人間の視覚の分解能は1秒の1000分の50~100程度と言われるので、この時間よりも短い変化を認識することはできない。
 思考実験してみる。
 もし視覚の分解能に限りがなくて、どこまでも微分して観察してゆくことができたなら、アジサイの色の変化の瞬間をとらえることができるだろうか?
 最終的にはOFFの瞬間がなければ変化は成り立たないと得心できるはずだ。

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おすすめ度 :★★★

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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損