2016年洋泉社発行

 戦後間もない静岡県で3つの冤罪事件が立て続けに起った――幸浦事件(S23)、二俣事件(S25)、小島事件(S25)。
 いずれも逮捕された容疑者に一審、二審とも死刑判決がなされ、最高裁で引っくり返って無罪が確定した。
 そのすべての事件の捜査に最初から関わって容疑者を自白させたのは、数えきれないほどの犯人検挙の実績をもち表彰されること五百回余という、県警きっての名刑事・紅林麻雄であった。
 その後も同じ静岡で起きた冤罪事件――島田事件(S29)、丸正事件(S30)、そして令和のいまも審理の続く袴田事件(S41)なども、元凶をつくったのは紅林刑事その人と云われている。
 紅林麻雄とはいったいどういう人物だったのか?
 なぜ同じ静岡県で冤罪事件が繰り返されたのか?
 それはどうすれば防げたのか?
 
 ――といったあたりが本書の主筋なのだが、副題が語っているように「道徳感情こそがその原因」というのが著者の主張である。
 道徳感情が冤罪の原因?
 普通、逆ではないのか? 道徳的でないから冤罪が起こるのでは?
 それとも、ここでいう道徳とは明治時代に世間に跋扈したという自己責任・自助努力を強調する通俗道徳のことなのか?
 

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ラファエロ作「堕天使を駆逐する聖ミカエル」をあしらった表紙


 掛け値なしの力作にして労作である。
 小口35ミリ、500ページを優に超える分量。
 巻末に上げられた参考文献たるや、300は数える。
 しかも、当事者のオリジナル証言が載っている一次資料が多く、先行する他の本からの引用や孫引きに頼らない正確さ重視の徹底した取材姿勢がうかがえる。
 “書庫派”を自認するだけあって、手間ひま惜しまず、根気よく丹念に調べ上げている。

 さらに、テーマの広がりと深さは特筆に価する。
 少なくとも5冊分のテーマと内容が凝縮されている感をもった。
 筆致もまたドラマチックなまでに熱く、「このことを世に知らしめたい」という著書の半端ない情熱が伝わってくる。 


「あとがき」にこうある。
〈二俣事件〉というあるひとつの冤罪事件について書くつもりが、冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理がじつは〈道徳感情〉であるなどという、その悲劇の克服法までをも含めた人間の本性についての壮大なる統一理論を展開する羽目になってしまいました。

 テーマの広がりと深さというのはまさに上の通りで、点が線となり、線が面となり、面が立体となり、立体が時空を超えるような、目くるめくスリリングな展開には興奮を覚える。
 一方、いろいろなテーマや人物エピソードを盛り込みすぎて全体に散漫な印象になっており、また、核となる冤罪事件の原因についての究明が後半になると具体性を失ってどんどん形而上学的になっていき、全般、焦点が曖昧になってしまった感がある。
 著者もその点は自覚しているようで、「この世のすべてを解き明す現代版〈造化の秘鍵〉を打ち立てるが如くになんでもかんでもぶち込んで大風呂敷を広げているよう」と自ら言っている。

 本書の後半で著者は、冤罪の原因を突き詰めていくとアダム・スミスの「道徳感情論」に行き当たると言う。
 そして、道徳感情は人類が進化の過程で身に着けた社会的性質(いわば認知バイアス)であり、それゆえ人間の本性である、冤罪は起こるべくして起こる――という結論につなげている。
 ソルティはアダム・スミスにも進化理論にも詳しくないので、この結論が当たっているかどうかは分からない。
 まことに興味深いテーマではあるが、ちょっと論理の飛躍が過ぎるんじゃないかという感を持った。

 なぜなら、実際には犯人を上げられずにお蔵入りする事件も数多くあり、そしてその際にたとえ怪しい容疑者がいたとしても多くの刑事たちは、紅林刑事のような拷問による自白強要や証拠のでっち上げなどしないのであるから、「冤罪=人間の本性」と結論付ける前にもっと個別の問題として精査すべき点はたくさんあろう。
 たとえば、紅林刑事のパーソナリティなり、静岡県警の体質なり、日本の捜査手法なり、裁判制度なり、組織間の縄張り争い(縦割り行政)なり、我が国の人権意識なり、マスコミの報道姿勢なり・・・・。
 いや、著者が決してそのあたりの追究や考察も疎かにはしていないことは前半で示されている。
 要は、前半と後半の作風のギャップのせいかもしれない。

 具体的な冤罪事件をめぐる検証ドキュメントという社会派スタンスと、冤罪という現象をめぐって見えてくる人間存在の解明という現象学的スタンス。
 両者の接合具合にすっきりしないものを感じた。 
 後半部におけるかなり強引にして粗雑な理論の展開が、前半部のせっかくの緻密なデータ調査による事件や世相の解析の価値を減じてしまった気がする。 
 はじめからどちらか一方にテーマを絞って、構成を組み立てて論じたのなら、もっとすっきりした読後感が得られたのではないか。
 そこを読者サービス満点と取るか、欲張りすぎ・気負いすぎと取るか、無理筋ととるか・・・・。
(ソルティは、5冊分の内容を1冊に詰め込んだのは「もったいない」という気がするが)

 菅賀江留郎(かんがえるろう)はもちろん筆名。
 詳しいプロフィールは不明。
 「少年犯罪データベースを主宰。書庫に籠もって、ただひたすら古い文献を読み続ける日々を送っている」とある。
 力量ある、個性的な作家であることは間違いない。
 今後の仕事に期待大である。 
 


おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損