1927年原著刊行
1997年講談社文芸文庫(訳・遠藤周作)

 自由を手に入れるために夫を毒殺しようとした若妻テレーズ。
 一命をとりとめた夫は家名を守るため偽証し、テレーズは逮捕や裁判を免れる。
 しかし、その後は田舎の屋敷に幽閉され、孤独と絶望のうちに過ごすことになる。

IMG_20210809_094250


 ドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(2020)の中で、全共闘の学生の一人から「自己と他者」について質問された三島は、モーリアックのこの小説に言及し、「テレーズが夫を殺そうと思った真の理由は、夫の目の中に不安を見たかったから」というくだりを紹介している。
 原著ではこうある。

おそらくあなたの目の中に不安と好奇心の色をみたかったのかもしれないわ、・・・・・つまりあなたの心の動揺よ。

 このセリフがなぜ自己と他者に関係するかと言えば、伝統的な制度と習慣の中で自己充足し「生」に疑問を持たない夫ベルナールは、自身のアイデンティティに不安や欠落感を持たないがゆえに、他者のもつ不安や好奇心が理解できない。
 すなわち「他者」が存在しない。
 彼にとっては、女性というもの・妻というもの・母というものは「かくあるべきように」あってくれればよいのであって、男と議論したり、夫の要求を拒んだり、赤ん坊の傍らでタバコを吸うような生き物では断じてない。
 「普通」に気立てのいい家庭的な女であってくれればいい。
 
 しかるにテレーズは、「普通」の女ではなかった。
 型にはまらない我の強い女であった。
 今風に言うならば、テレーズはフェミニストであろうか。
 あるいは、ベルナールよりその妹アンヌに愛着を抱くところ、夫との営みにおいて冷感症のように振舞うところからして、レズビアンなのではなかろうか。
 ベルナールには到底テレーズが理解できないし、そもそも他者を理解しようという心もなかった。

あの帰り道のあいだ、テレーズは知らぬ間に自分を理解してくれるベルナール、理解しようと務めてくれるベルナールを勝手につくりあげていたのだ。しかし今、夫をちらっと見ただけでありのままのこの男の姿が浮かび上がった。生涯に一度でも、他人の立場に立ってものを考えることのできない男――自分自身から抜けでて、相手が見ているものを見ようとする努力をしない人間。

 まったくタイプの異なる二人が結婚したのがそもそもの間違い。
 夫の毒殺を思い立つ前に、テレーズが『人形の家』のノラのように家から飛び出さなかったのが間違い。
 他者と向き合えるだけの素地のない者に、それを期待することが悲劇の始まりである。
 ベルナールには咎はない。

人形の家


 三島はおそらく、「学生はかくあるべし」の旧態依然たる大学当局と、新しい時代の自由を求める学生たちの対立に、ベルナールとテレーズの姿をたぶらせたのであろう。

わたしはただ人形のように生きたくなかったんです。身ぶりをしたり、きまりきった文句をいったり、いつもいつも一人のテレーズという女を殺してしまうようなことをしたくなかったんです。ねえ、ベルナール、わかるでしょう。わたしは本物でありたいと願ったんです。

 最後、ベルナールは地元から遠く離れたパリの街にテレーズを解放する。
 テレーズが「満ち足りた女のように一人で笑い」、自分の足で歩き始めるところで物語は終わる。
 世が世なら、テレーズは魔女として火炙りになっていただろう。




おすすめ度 :★★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損