1996年岩波書店

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 ソルティの中のヤクザのイメージと言えば、まず60年代東映の任侠シリーズ。
 鶴田浩二、高倉健、菅原文太、藤純子といった錚々たるスターが銀幕に焼き付けた“義理と人情”の裏街道。
 着流し、入れ墨、日本刀、親分子分の盃、日本家屋、番傘、博打、啖呵、出入り、一宿一飯の恩、カタギには迷惑かけん・・・・・。
 あくまで忍耐強く、あくまでストイック。
 画面を彩る敗者の美学。 
 緋牡丹のお竜こと藤純子の花そのものの美しさといったら!

牡丹


 その後、東映は73年公開の『仁義なき戦い』(深作欣二監督)の大ヒットを皮切りに実録路線に変更していったが、ソルティはこちらには興味が湧かなかった。
 ダブルのスーツ、白いエナメルの先のとがった靴、外車、サングラス、角刈り、チャカ(拳銃)、シャブ(覚醒剤)、シマの取り合い、壮絶な銃撃戦、簀巻きにして大阪湾、イロ(女)を風俗で働かせてのヒモ生活・・・・。
 刑事ドラマや東映Vシネに描かれるようなその後のヤクザ像は、この実録路線の延長上にあるのだろう。
 それはもはや、任侠道とか敗者の美学というものとは程遠く、まさに暴力団とか“反社”という呼称こそふさわしい。(岩下志麻主演の『極妻』については未見なのでよくわからない)
 
 いずれにせよ、ソルティのヤクザイメージはマスメディアによって作られたもので、現実にヤクザの知り合いもいなければ、パチンコや賭け事もやらず、近所に組の事務所があるわけでもないので、まず彼らとは接点のない半生を送ってきた。
 たまに繁華街のサウナに行ったときに、それらしき入れ墨の主を見るくらいである。
 その点では、本書で著者が述べている通りである。
 
 一般社会にとって意味があるのは、ヤクザは犯罪者で暴力的で社会に寄生しているという事実だけである。それ以上の情報は必要としない。なるほどその情報は事実であるかもしれないが、そのような態度からは個人としてのヤクザを完全に非人間化するというプロセスしか生じない。 

 だから、東海テレビが制作したドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015)は大変面白く、刺激的であった。
 カメラが大阪にある某ヤクザ事務所に入っていって、親分はじめ組員一人一人にインタビューして、その人柄や来歴を見せてくれたのである。
 そこに映し出されたヤクザの素顔は、おおむね不器用かつ直情径行で、世渡り上手とはおせじにも言えず、人間っぽさ濃厚であった。
 
 本書はそれに先立つこと20年前、1986年から1990年にヤクザの世界に単身乗り込んだ一研究者が、丹念なリサーチの結果をまとめあげた稀有なる記録である。
 それを実現したのが、本邦の研究者ではなく、イスラエルの文化人類学者であるところが衝撃的である。
 本書が発刊された時の反響を自分は覚えていないが、日本の文化人類学界や社会学界のみならず、マスコミ関係者や警察関係者においても、いや一般読者においても相当な衝撃をもって迎えられたのではなかろうか?
 日本人の研究者でもよくし得ないことが、イスラエル人にしてやられるとは・・・・!
 
 だが、もちろん外国人の研究者だからこそ、このような恐れ知らずの、偏見知らずの、しがらみ知らずのフィールドワークができたのは間違いあるまい。
 取材される相手(=ヤクザたち)も、表社会にいてヤクザを偏見の目で見ることに慣れたカタギの日本人ではなく、日本文化の外にいる外国人という部外者だからこそ、すんなりと受け入れ、胸襟を開き、本音を晒したのであろう。
 それは『さいごの色街 飛田』で飛田遊郭を取材した井上理津子に言えることと同じである。
 
 本書は、ヤクザという存在について、文化人類学、社会学、心理学、ジャーナリズムの扱いなど様々な視点からの洞察がなされ、興味深い。
 縁日には欠かせないテキヤの仕組みや日常の記述などは、著者も彼らと一緒に旅して露店で売り子もしたというだけあって、非常に具体的で面白い。 
 また数年に及ぶフィールドワークの結果として生じた著者とインフォーマント(情報提供者)たるヤクザたちとの友情や親睦の様子も描かれ、「ヤクザ」「外国人」「学者」といったレッテルをはがした人と人との真摯な関係の可能性について教えてくれる。

 一連の研究の果てに著者が実感したのは次のようなことであった。
 
 ヤクザは日本人の中心的自我の一つの変形であり、逆もまた真なりと言える。この主張に対してはたいていの日本人が異議を唱えるだろう。たいていの日本人はヤクザの中に自分自身を認めることなどできないだろうし、また認めようともしないであろう。しかし私の考えでは、ヤクザは伝統的社会からは排除され拒絶されてはいるが、多くの点で日本人の文化的な自己の一部であって、しかも周縁とは言い切れない一部である。二つの社会が似ているからこそ排除や拒絶が起こるのである。
 
 裏社会という言葉は言い得て妙で、表社会の正確な倒立像が裏社会たるヤクザの世界であろう。
 性風俗や賭博やドラッグなど、表社会の健全な人々がもつ後ろ暗い欲望を密かに叶えてくれるのが、裏社会の役割であった。
 ジギルとハイドの正体は、同じ一人の人間である。
 両者は分けられない。

 著者があとがきで記しているように、フィールドワークが行われたのは92年の暴力団対策法施行の以前であり、その後、日本社会(表社会)も裏社会も大きく変わってしまった。
 暴力団への締め付けが厳しくなり、組からの離脱者が増えている。
 既存の組織もまた存続の危機にあるが、それは「暴力団壊滅、バンザイ!」と市民社会が一概に喜んでばかりいられるものでなく、掟も縛りもない半グレや国際ギャングのようなアウトローの増加を生んでいる。
 著者が言うように、「昔風のヤクザは、もうこの世界の規範ではなく、骨董品めいたものになった」のである。

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 60年代の東映任侠映画に入れ込んでいた20代の頃、ソルティは「人はなぜヤクザの道を選ぶのか」、ほとんど考えることがなかった。
 ただ美しくスタイリッシュな映像と、カッコいい科白と、見事な太刀さばきに見とれているばかりであった。
 関西の人間なら暗黙の了解として知っているであろうことを、関東生まれで世間知らずの自分は知らなかった。
 無知っていうのは罪だなあと思う。
 と同時に、タブーを作って顕在化させないでいるのは、やはり日本人にとって教育上よろしくないと思う。
 被差別部落や在日朝鮮人などマイノリティの視点から、再度、東映ヤクザ映画を見直してみたい。
 
ヤクザ世界に庇護を求める者たちのもっとも根本的な動機は、通常社会に順応できないことにある。周縁的であるからこそヤクザは、自分がそこに所属し、そこで成功した気持ちがもてるのだ。反転世界での逆転した成功は、差別されうまく適応できなかった人々の周縁的なアウトローの世界にいるという思いに基づいている。



 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
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★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損