2010年アーツアンドクラフツ

 立松和平を読むのははじめて。
 ソルティの中では、永島敏行が主演したATG制作映画『遠雷』(1981)の原作者であることと、久米宏司会のテレビ朝日『ニュースステーション』に時々出演し、朴訥な栃木訛りで世界各地の自然風景を紹介していた人というイメージがある。
 たくさんの著書があり文学賞なども獲っているのだが、行動派で活動分野が広かったので、小説家なのかジャーナリストなのか環境活動家なのか、よくわからなかった。
 ましてや仏教に造詣が深いとは・・・・。
 しかるに、立松は若い頃にインドを旅して仏跡を巡っているし、道元の伝記を書いてもいれば、道元を題材にした歌舞伎台本『道元の月』も物して高い評価を受けている。
 2010年に62歳で亡くなった時の絶筆は『良寛』だったという。

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 本書では11名の相手と仏教について語っている。
 玄侑宗久(作家、臨済宗僧侶)、山折哲雄(宗教学者)、大谷光真(浄土真宗僧侶)、板橋興宗(曹洞宗僧侶)、酒井雄哉(比叡山千日回峰行達成者)など生粋の仏教者もいれば、岩田慶治(文化人類学者)、坂東三津五郎(歌舞伎役者)、神津カンナ(エッセイスト)など分野の異なる相手もいる。
 様々な相手と自由無碍に語り、豊富な話題を繰り出す立松の博識と幅広い人生体験が際立っている。
 そのぶん、言葉のキャッチボールの面白さや対話による「他者」の発見の妙を味わえるのが一番の興趣であるはずのせっかくの対談という形式が、ところどころ立松の自分語りになってしまい、対話が深まらないまま終わってしまい、残念な感もある。(とりわけ仏教者との対話において顕著)
 たとえば、三島由紀夫と石原慎太郎による対談や、岸惠子と吉永小百合による対談、そして五木寛之と沖浦和光による対談などと比べれば、そのもったいなさは歯がゆいほど。
 対談というのは、簡単そうに見えて難しいものなのだ。

 それにしても、日本の著名な仏教者同士の対話を読んでいると、「話がまさに日本仏教の中にすっぽり収まる」ということに今さらながら感じ入る。
 すなわち、「日本的大乗仏教こそが仏教」という前提がまずあって、そのたしかに豊穣ではあるが日本人にしか分からない(暗黙の了解的)閉鎖性を持つ箱庭の中で、仏教がさまざまに語られる。
 その特徴は単純に言うと、アニミズム的、現世肯定的、即身成仏的ってことになろう。
 日本古来の神道と修験道、中国由来の仏教(禅や密教含む)と道教、そこにいつからか日本人の血の中を桜の花びらとともに流れるようになった「もののあはれ」的無常観――そういったもののミックスである。
 おなじみの言説としては、「一切衆生悉有仏性=生きとし生けるものはすべて生まれながら仏となりうる素質をもつ、あるいは仏である」、「仏教というは森羅万象なり」、「あるがままに生きる」、「修証一等」、「梵我一如」、「すべての衆は救われておるんじゃ~」・・・・e.t.c.

 末木文美士はその著『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』の中で、「あるがままのこの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想」すなわち本覚思想が、「古代末期から中世へかけての日本の天台宗でおおいに発展し、天台宗のみならず仏教界全体、さらには文学・芸術にまで大きな影響をおよぼした」と論じている。
 箱庭とは本覚思想のことである。

箱庭


 かつて小乗仏教と貶められたテーラワーダ仏教は、歴史的にもっとも古い『阿含経典』を聖典とし、二千年以上、形を変えず伝えてきた。
 お釈迦様の教えに近いと言われるゆえんだ。
 ソルティは阿含経典のすべてを読んだわけではないが、主要なものの中に本覚思想は見当たらない。
 母の手で包み込まれるような優しい感のある日本的大乗仏教にくらべると、その冷徹なまでの論理性、容赦ない自力本願性、徹底した現世否定の姿勢は、同じ宗教とはとても思われないくらいの違いがある。
 別にテーラワーダ仏教を勧めるわけではないが、一度箱庭から出て、外から日本人の仏教を見つめ直すことは、自らを相対化する上で意義があるのではなかろうか。
 本書を読んで、そう思った。



おすすめ度 :★★

★★★★★
 もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
     読み損、観て損、聴き損