1932年7~9月の往復書簡
2000年花風社刊行
2016年講談社文庫(浅見昇吾 訳)
20世紀を代表する物理学者と心理学者がこのような手紙をやりとりしていたとは、ついぞ知らなかった。
訳者あとがきによれば、当時この往復書簡は刊行されはしたものの、翌年のナチズム政権誕生後の激動の中で埋もれてしまったらしい。
アインシュタインもフロイトもユダヤ系であり、ナチスの魔の手から逃れるため、前者はドイツからアメリカへ、後者はオーストリアからイギリスへ亡命している。
第二次世界大戦の渦中、影響力の大きい二大天才によるこのようなテーマの著作が陽の目を見るのが難しかったことは、想像に難くない。
ドイツでもオーストリアでも、アメリカでもイギリスでも、むろん日本でも、戦争に異議を唱えてはいけない時代だったのである。
本邦での出版は2000年が初めてとのこと。
文通のきっかけは、国際連盟がアインシュタインに寄せた依頼。
「誰でも好きな方を選び、いまの文明でもっとも大切と思える問いについて意見を交わしてください」
この依頼に対してアインシュタインが選んだ相手が、23歳年上の精神医学の巨人ジークムント・フロイトであり、選んだテーマが、「人間を戦争というくびきから解き放つことができるのか?」というものだったのである。
往復書簡には違いないが、両者のやりとりは一回こっきりで、難しい物理学用語も心理学用語も使われていない。
戦争の原因を、国際政治的あるいは宗教・民族的あるいは地勢・資源的な観点から読み解いているわけでもない。
3、40分もあればさっと読み終える、極めてわかりやすい内容である。
本文庫には、二人の手紙のやりとりに続いて、浅見昇吾による『訳者あとがき』、解剖学者で『バカの壁』で有名な養老孟司による解説『ヒトと戦争』、ひきこもりの研究で知られる精神科医の斎藤環による解説『私たちの文化が戦争を抑止する』の三本が収録されている。
これら付録のほうが本文より分量が多く、テーマが複雑なくらいである(とくに養老による解説)。
手紙の内容を簡潔にまとめる。
まず、アインシュタインもフロイトも「戦争が起こるのは、人の本能に破壊欲求があるから」という点で一致をみる。フロイトは、それは人間にある「死の欲動(タナトス)」が外の対象に対して向けられたものであると専門的説明をする。
フロイトは続ける。
人間の攻撃性を完全に取り除くことはできないので、戦争とは別のはけ口を見つけてやればよい。「死の欲動」の反対にある「生の欲動(エロス)」を呼び覚ませばよい。
人と人との間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。
単純に言えば、「死の欲動」とは憎しみ、「生の欲動」とは愛である。
汝の敵を愛せよ――。
しかし、物事はそんなに単純でないことはフロイト自身、分かっている。
大衆の感情を掻き立て心の絆を作る行為そのものが、戦意高揚にもっとも効果あることは、ほかならぬナチスが立証している。
タナトスはエロスを利用する。(逆に、エロスもまたタナトスを利用する。たとえば三島由紀夫)
フロイトは別の戦争抑止策を提言して、書簡を終える。
文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる!心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方――これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。
このフロイトの回答に対してアインシュタインがどう思ったのか、納得したのかしなかったのか、希望を得たのか失望したのか、そこが分からないのは残念至極である。
ただ、第五福竜丸の被爆事件がきっかけとなって彼が死の直前に書き上げた『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年)の最後で、こう記している。
私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。
啓発的かつ面白いのは、養老孟司による解説である。
養老は、二人の議論で扱われなかったこととして、次の三点を挙げる。
- 当時の政治情勢
- 人口問題と戦争との関係
- 情報あるいはITの技術が戦争にもたらす影響
1と2はともかく、3はもちろん二人の議論に取り上げられるべくもない。
二人もよもやここまでIT技術と武器開発が進み、たとえばドローンの遠隔操作によるポイント爆撃といったように戦争の形態が変わるとは想像していなかっただろう。
今回の新型コロナウイルスがそうなのかどうかは知らないが、実戦よりも確実に楽々と大量の敵の命を奪って社会を崩壊させる生物兵器の恐ろしさには思い及ばなかったであろう。
二人が手紙のやりとりした当時と現代とでは、社会は大きく変わってしまった。
養老は述べる。
パソコンとスマホに代表されるITは日常生活を変えた。そこでは新しい社会システムが創られた、あるいは創られつつある、といっていいだろう。現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば「ひとりでにできる」、あるいは「自然にできてしまった」という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。「アルゴリズムに従って創られる」面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。
このあたりは、『ホモ・デウス』においてユヴァル・ノア・ハラリが詳述している通りで、神の死とともに始まった近現代の「人間至上主義」が、人間を含むすべての生物をデータというフラットなものに還元する「データ至上主義」に、変わりつつある。
そういった人類史における大転換期にあって、戦争はいったいどうなっていくのか?
テロリズムはどう解釈されうるのか?
この観点から読み解いていく養老の洞察力が冴えて、一読に値する。
ユヴァルはアルゴリズム的社会において、戦争は――少なくとも国家間の大きな戦争は、廃れていくと予言している。
ユヴァルはアルゴリズム的社会において、戦争は――少なくとも国家間の大きな戦争は、廃れていくと予言している。
養老もまた、「ほとんどが局地戦」になるだろうと述べている。
それが本当であるならば、ソルティも「IT音痴の旧世代」あるいは「昭和のステゴザウルス」として静かに世を去っていくのもやぶさかでないのだが・・・。
最後に、二人の議論にも養老の指摘にもかからなかった今一つの論点を上げる。
それはジェンダー視点である。
「ひとはなぜ戦争をするのか」という問いそのものに、すでにバイアスがかかっている。
なぜなら、この場合の「ひと」とは MAN すなはち「男」のことであろうから。
戦争をするのは、戦争を好むのは、どう見たって「女」よりも「男」である。
戦争の種は、ホモサピエンスの「男」の性質(マチョイズム)に埋め込まれている。
アインシュタインもフロイトも養老孟司も、そこに思いが及ばない。
「バカの壁」ならぬ「男の壁」がそこにある。
おすすめ度 :★★★★
★★★★★ もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★ 面白い! お見事! 一食抜いても
★★★ 読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★ いい退屈しのぎになった
★ 読み損、観て損、聴き損
ソルティはかた
がしました