1950年原著刊行
1957年邦訳刊行
2008年ハヤカワ・ミステリ文庫(宇佐川晶子訳)

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 「昼だよ眠れ」と誤変換された(笑)
 原題は、No Tears for Hilda 「ヒルダに流す涙はない」

 ヒルダはもちろん、本書に登場する女性の名前で、のっけからガスオーブンに頭を突っ込んだ死体となって読者に紹介される。殺人事件の被害者である。
 犯人と目され警察に逮捕されたのは、夫のジョージ。
 確たるアリバイもないうえに、精神病院に入院している16歳の娘ジェーンの担当看護師ルーシーと浮気していたことも発覚し、嫌疑濃厚である。
 休暇でドイツから一時帰国したジョージの親友マックスは、ジョージの無実を信じ、真犯人を見つけるための捜査を開始する。

 ガーヴのもっとも有名な小説であり、ミステリーの古典としての地位を確立している本作を読んだのは、高校時代か大学時代だったと思う。
 例によってすっかり筋を忘れていた。
 それほど感銘を受けなかったのであろう。
 今回読みなおしてみて、その理由が分かった。

 本作はミステリーとしては凡庸なのである。
 個性的な名探偵が出てきて見事な論理を駆使して名推理を披露するわけでもないし、あっと驚くどんでん返しで意外な犯人が名指されるわけでもないし、ユニークで驚愕のトリックが使われているわけでもない。
 親友の絶体絶命のピンチを救うという点では、ウィリアム・アイリッシュのかの名作『幻の女』同様の制限時間付スリラーではあるが、そこに重点が置かれてるわけでもなく、読者をドキドキハラハラさせる緊迫感は薄い。
「なんでこの小説がそんなに評価されるんだろう?」
 若かりしソルティはそう思ったに違いない。

 本作の一番のポイントは、ヒルダという女の人物造型にある。
 鈍感な夫のジョージは彼女のもっとも近くにいながら良く分かっていなかったのだが、ヒルダはとんでもない性格異常者だったのである。
 現代で言うなら、サイコパスあるいは反社会性パーソナリティ障害。

 最大の特徴は「良心の欠如」であり、他人の痛みに対する共感が全く無く、自己中心的な行動をして相手を苦しめても快楽は感じるが、罪悪感は微塵も感じない。(ウィキペディア『精神病質』より抜粋)

 今でこそ、こうしたタイプの人間が一定数いることは日本でも知られるようになったが、ソルティが本書を読んだ70~80年代はまだこういった概念は社会に普及していなかった。
 むろん、上記のような傾向を強く持つ人間は昔から存在していたのだろうが、精神障害というカテゴリーではなく個々人の性格上の特性として、すなわち「悪人」や「悪女」として扱われていたであろう。
 また、戦争や内乱などの混乱の時代にはむしろ、そうしたパーソナリティを有するバイタリティあふれる人のほうが、逞しく(図々しく)賢く立ち回れ、生き残るであろうことは想像に難くない。
 世の中がまがりなりにも平和で安定し、社会に適合した平均的な人間が求められるような(つまらない)時代になったからこそ、こういった“型にはまらず、周囲に忖度することのない、身勝手な人間”が悪目立つし、問題視されるのである。
 織田信長なんか、絶対サイコパスである。

 本書を始めて読んだ時、ヒルダという女をリアリティもって感じることができなかった。
 サイコパスやパーソナリティ障害について知らなかったし、実生活においても狭くて浅い人間関係しか知らなかったので、そういったタイプの人間と関わることがなかった。
 むろん、家庭内にもいなかった。
 野村沙知代も初代・細木数子(追悼)もまだテレビに登場していなかった。 
 おそらく一読して、「こんな女、いるかあ?」と思ったことであろう。
 作者の創造したリアリティのない架空キャラクターの特徴ゆえに殺害動機が成り立つ、凡庸で不自然なミステリーと感じたことだろう。
 なんのことはない、ソルティが世間知らずだったのである。
 
 今、改めて読みなおしてみると、ガーヴが1950年にこうした特異なキャラを登場させ、見事に描き切っていることに、感心するほかない。実際にガーヴが知っている(振り回された)女をモデルとしたのだろうか?
 スティーヴン・キング『ミザリー』(1987)のアニー・ウィルクス、トニー・ハリス『羊たちの沈黙』(1988)のハンニバル・レクター博士、貴志祐介『悪の教典』(1999)の蓮実聖司、森博嗣『すべてがFになる』ほかに登場する間賀田四季・・・・。
 その後のサイコパスヒーロー(?)たちの活躍する口火を切ったのが、まさにこのヒルダだったのである。
 
 
おすすめ度 :★★★

★★★★★ 
もう最高! 読まなきゃ損、観なきゃ損、聴かなきゃ損
★★★★  面白い! お見事! 一食抜いても
★★★   読んでよかった、観てよかった、聴いてよかった
★★    いい退屈しのぎになった
★     読み損、観て損、聴き損